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祝田神社

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  祭  神:石龍比古命 石龍比売命 稲倉魂命
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「式内祝田神社ハ今日(平成元年カラ一千八十余年前醍醐天皇延喜時代ニ既ニ此
       処ニ祀ラレテイタ神社デアリマス。祭神ハ伊和大神ノ子・石龍比古命ト、妹神
       石龍比売命ノ二柱ト、後ニ稲荷大明神ト云ハレテイル稲倉魂命ヲ祀リ三柱ノ神
       デアリマス。

       播磨鏡ニ祝田神社清水村田地ノ内ニ有リ延喜式七座ノ一也
       土人ホウタガ森ト云フ、ト記されてイマス。
        参考 揖保郡(元ノ)七座
         粒坐天照神社 阿曽神社 祝田神社 阿波遅神社 中臣印達神社
         夜比良神社 家島神社

       播磨国風土記ニ
       美奈志川(現在の中垣内川)ト号ル所以ハ伊和大神ノ子石龍比古命ト妹神石龍
       比売命ノ二神川水ヲ相競ヒ、妖(セ)ノ神ハ北方越部村ニ流サント欲ス。爾ノ
       時、妖神山峯ヲ跨ギ之ヲ流下ス。妹神之ヲ見て理ニ非ズト為シ、即チ指櫛ヲ以
       テ其ノ流水ヲ塞ギ、峯辺ヨリ溝ヲ闢キ泉村ニ流シオトシキ。爾ニ妖神復泉底之
       川ニ至リ流ヲ奪ヒテ西方桑原村ニ流サントス。是ニ於テ妹神遂ニ之ヲ許サズ蜜
       樋ヲ作り泉村ノ田頭ニ流出ス。此ヨリ川ノ水絶エテ流レズ。故に無水川と号ク。
       ト記サレテイマス
       (註)泉村ハ現在ノ清水デアリマス」
  住  所:兵庫県龍野市揖西町清水王子前302
  電話番号:
  ひとこと:参拝したのは、4月1日。
       境内には参拝者が絶えず、社務所には複数の女性が。
       そして、参拝を終えた私達に、赤飯をくださいました。
       なんでも、毎月1日と15日には、こうやって赤飯を用意し、参拝者に配られ
       るんだとか。

      「講みたいなものが開催されるのですか?」
       と質問しましたらば、そうではなく、商売人の神様として有名で、1日と15
       日には参拝者が多い。
       だから、こんな風に接待しているのだとのことでした。

       なぜ商売の神様かはよくわかりませんが、水の神様だからかもしれません。

       さて、播磨には記紀に登場しない神々を祀る神社が散在します。
       この祝田神社もそのひとつ。

       英賀神社のご祭神、英賀比古・英賀比売神もその一例。

       伊和神社のご祭神と、伊和都比売神社のご祭神も夫婦だとされていますよね。

       そして、もうひとつ気になるのは、その夫婦神が争ったという記録が複数見え
       ることなんです。

       播磨国風土記・讃容の郡にある逸話を引用してみましょう。

      「讃容というわけは、大神妹背二柱の紙がおのおの裂きをあらそって国を占めら
       れた時、妹玉津日女命が鹿を生け捕って寝ころがし、その腹を割いてその血に
       稲をまきあれた。すると一夜のあいだに苗が生えたので、ただちにこれを取っ
       て植えさせた。ここに大神は勅して、『あなたは五月夜に植えなさったのか』
       と仰せられ、すぐさま他の処に差ってしまわれた。だから五月夜の郡と呼ぶ。」 

       そして、この神社の由緒にあるのは、播磨国風土記・揖保郡・出水の里にある
       伝承。

       つまり、越部の村に水が流れなくなり、出水の村に水が豊かであることを説明
       した逸話なんでしょうが、この二つの伝承ともに、夫婦神のうち、妹(妻)神
       が勝利しているという点に興味が惹かれます。

       播磨の人々が恐妻家ぞろいであった・・・というわけじゃないでしょう。

       讃容の伝承にでてくる夫婦神のうち、夫神は伊和大神ではないかと言われてい
       ます。
       播磨国風土記の中で、伊和大神は、多くの妻をもらっています。
       また神の名というのは、場所により時により変化します。

       地名が名になったり、その状態が神になったりするのです。

       それは、何かの都合の複数の神を同一神としたというパターンもあると思いま
       すが、
      「名」の持つ呪力性にも起因するかもしれません。

       つまり、名は体を表すという言葉のあるとおり、名を知られるということは、
       命を預けるのと同等であるという考え方が日本にも古来あったようだからです。

       たとえば、古典において、女性名はなんだか抽象的です。

       源氏物語に登場するのは、
       桐壺の更衣・藤壺の宮・葵の上・紫の上・・・など。

       桐壺の更衣は、「桐壺」に使える更衣(女性の位)という、単なる役職名です。
       藤壺の宮も。

       葵の上は、葵祭りでえらい目にあったから。
       紫の上は、藤の縁(藤壺の宮の姪っこ)だから。

       つまり、これらは決して個人名ではないんです。

       その他、昼顔・空蝉など、どれも個人名ではありませんよね?

       平安貴族の女性は、夫となる男性以外には名を教えませんでした。
       それは、名を知らせることは、自分のすべてを委ねることだったから。

       男性の場合、名を知られることは、自分のすべてを知られること。
       命をとられるかも・・・と。

       だから、神名でさえ、本名は今日まで残っていないかもしれないわけです。

       強力な神が複数の名を持つわけは、そのことによるのかもしれません。
       太平記を読むと、頭がこんがらがります。
       一人の登場人物に対して、呼び名が5つも6つもあるからです。
       神名においても同じかもしれません。

       ・・・とすればですね。

       もしかしたら、伊和大神も、播磨国風土記でたくさんの別名を持っているかも。
       もしかしたら、この石龍比古命も、伊和大神の別名かも?
       石龍比売命の夫だから、石龍比古と名乗ったとか??

       とすれば、妻神が領地争いに勝利する理由もわかります。

       夫は、妻に領土を与えたのではないでしょうか。
       伊和大神はたくさんの女性を妻にし、それぞれ似合いの土地を与えた。
       そういう考えは、不自然ではない気がします。

       とすると・・・。
       この水に溢れる土地は、石龍比売命に似合いの場所だったのかもしれません。
       もちろん、石龍比売という名も、仮名なのだとしたら・・・。

       石龍比売は、瑞々しく優しい女性だったのでしょうね。

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