祭 神:天照国照彦火明命 説 明:ご由緒書を転載します。 「人皇第三十二代崇峻天皇、第三十三代推古天皇の御代、播磨国現在の龍野市に 伊福部連駁田彦(いふきべのむらじふじたひこ)という長者があり、人格者で 近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った杜があって、 推古天皇二年正月一日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを 見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、『我は天照国照 彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を 守り給うて既に久しい。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を 授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。 すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの 里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。』 と。ここで使者の童子はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されてい た。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一 夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、ま たこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以 後この土地はイイボ(粒、揖保、伊穂などいろいろな文字をあてている)の郡 と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め人々は嬉び感謝し、この神社 を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。 祭神に関する伝承 天照国照彦火明命 天照大御神の太子・正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命の御子にして瓊々杵尊の兄君 におわす。篤農特に米作りの神にして穂赤熟命の字も当てる。尾張氏の祖神と 言われている。」 住 所:兵庫県龍野市龍野町日山 電話番号: ひとこと:目を引くのは、ご祭神・天照国照彦火明命のお使いが、「異様に輝くもの」で あり、空に去ったということです。 この童子がやってきたのが夜か昼かはわかりませんが、もし夜ならば、これは、 「星」かも。 記紀・風土記の表現でも、「明るく照らしてやってくる」「明るく光って去っ ていく」神は、結構おられるんじゃないでしょうか。 今思いつくのは、日本書紀に出てくる大三輪の神と、風土記に出てくる伊勢津 彦の神です。 前者は光りながらやってきて、後者は光りながら去りました。 「日本の神々」によると、「大洗磯前神社」「酒列磯前神社」のご祭神である、 大己貴命・少彦名命も、「天のあたりを光輝かせて」到来されたようです。 偶然かもしれませんが、「光りながら」と殊更に表現されているのは、 地祇・国津神。 つまり、高天原から到来した後着の神ではなく、それ以前から日本に定着して おられて、日本を治めておられた神々ではないでしょうか? しかしまぁ、「神の使い」が、「光りながらやってくる」という発想は、特段、 珍しいことでもないと思いますので、あんまりこじつけるのはやめときましょ う(笑) この神社のご祭神は、「農業のご利益」について、特筆されてます。 天照国照彦火明命。 そして、瓊々杵尊の兄君。 ということは、「饒速日(ニギハヤヒ)尊」という名前の方が有名かもしれま せん。 瓊々杵尊よりも先に葦原中国(日本)に到着し、国を治めているにも関わらず、 瓊々杵尊の曾孫である神武天皇が大和入りするや、味方であり、義兄でもある 長髄彦を裏切って殺し、神武天皇に国を譲った神である。 ・・・と、記紀では記されています。 あ・く・ま・で・も、記・紀・は!! そう主張してます。 ほんまかいなっ!! 饒速日尊は、物部氏の祖神としても有名です。 ・・・尾張氏の祖神としても有名ですね(#^.^#) このエピソードにより、記紀編纂の時代、物部氏の扱いがどうだったか、は、 な〜んとなく見えてくるんですが、それだけ、という気がします。 記紀には、大和でなく、葦原中国(この場合は出雲)の国譲りについて、こん なエピソードが出てきます。 高天原から、「出雲国譲りの交渉」の命をうけた天穂日命は、出雲の国主・大 物主命におもねって、帰ってきませんでした。 次に使わされた、天稚彦も、大物主命の娘と結婚して、帰ってきませんでした。 そりゃ、自分の国にいるよりも、彼方の国での方が優遇されてたら、そうなる のが当然でしょう。 ただ、出雲へやってきて(多分)厚遇された天穂日命でさえそうです。 国主の娘と結婚しただけの稚彦でさえそうです。 当時、大和という、海の便にもよく、農作にもよい国の主となっていた饒速日 尊が、流離いの民となっていた神武天皇に国を譲る・・・義兄を殺してまで・ ・・必然性が全く感じられません。 本当は、神武天皇、頼み込んでやっとこさ国に入れてもらったのを、「勇まし く入国した」ように、虚勢はってるだけだ、と、私は思うのですけれども(^^ゞ で、この神社のご由緒。 饒速日尊は、農作の神である、とされています。 記紀では、饒速日尊は「磐船」で到来した神。 磐のような船で未知の国にやってくるのはどういう理由があるでしょう? 「黒船」は、日本に開国を迫るためにやってきたんでしたね。 まぁ、決め付けることはできませんが、やはり、饒速日尊は、武力的圧力を持 到来した、という表現なのだと思われます。 が、この神社のご由緒にではそんなイメージ、全くないですよね。 もちろん、農作の神が、武力も有してたというのは十分あり得ることなんです が・・・。 でも、稲作のための米粒を与える神と、武力でもって脅し、仲間を裏切る神と は、何か、全く相容れないものを感じたりします。 饒速日尊の実像(?)と、記紀の表現。 結構違ってるかも(笑) あぁ・・・もしかしたら、磐船に乗ってたのは、「船一杯の米粒」だったかも しれないですね。 そうかも?! いや、絶対そうだっ!! その米粒をどこから運んできたか? それは、もちろん、この粒坐天照神社のある竜野市からです。 ・・・実は、この饒速日尊のお名前にある「火明命」に注目すると、もう一つ、 興味深い伝承があるんです。 播磨国風土記逸文「飾磨の郡」にあるエピソードです。 「昔、大汝(オオナムチ)命の子の日明命は、強情で行状も非常にたけだけしか った。そのため父神はこれを思い悩んで、棄てて逃れようとした。すなわち因 達の神山まで来て、その子を水汲みにやって、まだ帰ってこないうちに、すぐ さま船を出して逃げ去った。」 この後、父に棄てられたことに気づいた火明命は怒り狂い、大風を起こして、 父の船をぶっ壊します。 この話し、不審に思いませんか? 父が「一緒に因達まで行こう」と言ったら素直についてくる息子。 「水を汲んできておくれ」と頼めば、「重いよ、自分で運んでこいよ」などと反 抗することもなく汲みに行ってくれる息子。 「強情で、行状が猛々しい」 ですか? ただ、火明命が怒り出すと、父の船は木っ端微塵。 大汝命は、命からがら国へ戻るんですね。 力のある神であったことは間違いないようです。 つまり、結局、火明命は乱暴な息子ではなかった。 ただ、父よりも力があった為、それを恐れた父により棄てられた。 つまり、この逸話を見る限り、父の容量が狭いというだけではないでしょうか。 その時、火明命が棄てられたのは、播磨国飾磨郡因達。 今の姫路市飾磨郡とは少し違うのかもしれませんが、現在の姫路市飾磨郡から、 竜野市は、10キロちょっとの距離ですね。 因達に棄てられた火明命がこの地へやってきたと考えるのに不思議はありません。 とすると、ですね。 親に棄てられたのに、優しさを忘れず、正直な民を見ると豊作の種を恵む神。 火明命はそんな神ということになります。 そして(私の妄想の中では)そこで実った米を供物として奉じられた火明命は、 その米をもっと他の地域にも分け与えようと、岩船に満載し、旅立ちました。 そして、河内の国に辿り着いたのでした。 ・・・素晴らしい(T_T)!!