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市杵島姫神社

ichikishima_jurokusen





  祭  神:市杵嶋姫命 
  説  明:大和史蹟研究会発行の「大和の伝説」から引用します。
      「十六面 磯城郡田原本町十六面(旧磯城郡平野村十六面)
       西竹田に猿楽師が住んでいた。名を金春といった。天から十六という面が落ちた。
       それで、そのところを小字十六面(じゅうろくせん)という。十六という面は、
       美しい公達をあらわしたもので、これを十六というのは平敦盛が戦死した時が十
       六であったからだという。この十六という面をつけると気を狂ったようになるの
       で、金春の息子は能楽師として家をつぐことをあきらめて、この面を御神体とし
       てまつったのが十六面の市杵島姫神社だという。面作りは大網と富本とにいた。
       十六面はもと富本と一しょであったので、富本の伏せ名として十六面をトムオモ
       テとよみ、トムモトとよめるので、本名を伏せて十六面という名にしたのだとい
       う(横田左門)」
  住  所:奈良県磯城郡田原本町十六面242
  電話番号:
  ひとこと:同じく田原本町の十六面付近に、「秦楽寺」があります。
       秦楽寺の伝承として、同じく大和の伝説に掲載があるんで、そのまんま引用しま
       しょうね。
      「壺の中の児 磯城郡田原本町秦之庄(旧磯城郡多村秦之庄)
       秦楽寺の北の門の前に、もと金春屋敷があった。金春の先祖は秦河勝だといわれ
       るが、秦河勝は洪水に際して長谷川から流れて下った壺の中にいた嬰児であった。
       時の天皇のお夢にこれがあらわれて、秦始皇帝の再誕であると名のって、天皇に
       重く用いられたという。花伝書にも出ている。(横田左門)」
       
       風姿花伝には、確かに同じような話が載っています。
      「日本国においては、欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の河の洪水の折節、河上より
       一つの壺流れ下る。三輪の杉の鳥居の辺にて、雲客、この壺を取る。中にみどり
       子あり、貌柔和にして、玉の如し。これ、降人なるが故に、内裏に奉聞す。その
       夜、帝の御夢に、みどり子の云はく、『我はこれ、大国秦始皇帝の再誕なり。日
       域に機縁ありて、今現存す』と云ふ。帝、奇特に思し召し、殿上に召さる。成人
       に従ひて、才智人に越え、年十五にて大臣の位に昇り、秦の姓を下さるる。『秦』
       と云ふ文字、『はだ』なるが故に、秦河勝これなり。(中略)
       かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕え奉り、この芸をば子
       孫に伝へ、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波浦より、うつぼ舟に乗りて、風
       に任せて西海に出づ。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。即ち神とあがめて、国豊か
       なり。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名づく(後略)」
       
       面白いのは、誕生に際して、長谷川に三輪という、「要所」が関わってくること。
       それに、うつろ舟に乗って流れてきて、同じようにうつろ舟で流れ去るというと、
       スクナヒコナを思いだしませんか?
       
       確かに、三輪の大神神社のご祭神にスクナヒコナの名がありますね。
       そして長谷寺。
       こちらはお寺ですが、スクナヒコナと同じ薬の神様とされる中将姫は、長谷寺の
       申し子です。
       
       何かありそうな気がしませんか?
       
       それに、「十六」という面が、金春の息子に祟りをなすというのも面白い。
       
       それに、富本の伏せ名として「十六面」が用いられたとありますが……。
       反対では?
      「十六面」の伏せ名が、富本だというほうが、しっくりくるのですが。
      
       でも、だとしたら、この地と十六面はどのような関係があるのでしょうね?
       
       この十六面が祀られた神社の御祭神が、市杵島姫なのは、市杵島姫と同神とされ
       る弁天様が芸能の神様だからでしょうか?それとも?
       
       能楽師の屋敷があったこの地に伝わる伝承。
       非常にそそられるのです……。

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