祭 神:天日鷲命 説 明:ご由緒書を転載します。 「御祭神天日鷲命は、神代の昔に穀木麻楮を植え、製紙製麻紡織の所業を創始され、高天原に天照 大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣をつくり神々と共に祈祷られ、天の岩戸開きに大 きな功績を挙げられた。『日本書紀』 その子孫はその氏族は忌部と称し(厳重に謹んで祭りを掌る人々の意)、中臣氏と共に国家の祭 祀を掌った。神武天皇の御代、阿波国に下り、郷土を開拓使、代々朝廷に麁服御衣(あらたえの みそ、古くは穀木、平安時代は麻で織る)を貢上し、それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供 された。麻植郡(現在の吉野川市)の名も麻を植える事から起きたものである。『古語拾遺』 忌部神社は忌部族、すなわち徳島県民の祖神である天日鷲命を祭り、古来阿波の国総鎮守の神社 として朝野の尊崇篤く、延喜の制には官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大 社)、四国西国随一の格式の大社として、四国一の宮とも称せられた。文治元年源義経公屋島合 戦のみぎり、太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を奉納、更に文治三年源頼朝御供料として田畑一 千町歩を寄進したことが社紀に伝えられている。 しかしその信仰の中心である阿波忌部氏は皇室との特別の関係が故に南北朝の戦乱の折り、阿波 の山岳武士として南朝方に中世を尽くし、悉く滅亡。四国随一と称されたその社殿も兵火にかか り、またその後も土佐の長曾我部氏阿波侵奪等のたびたびの兵禍に羅りの(ママ)社地も不明と なったが、明治維新後、その天皇即位に深く関わる由緒の特殊性に鑑み、明治大帝の格別の思し 召しを持って復興仰せ出され明治四年国幣中社に列せられたが、社地不明分につき、暫時県社大 麻比古神社(鳴門市)に合祀、明治七年その所在地を麻植郡山崎村と決定されたが、同十四年に 美馬郡西端村に遷祀、同二十年現在地に奉遷鎮祭し奉った。 以後徳島県を代表する神社として畏くも昭和天皇様には親しく当社に御参拝の栄誉を賜るなど、 国家の手厚い保護の下漸次社殿の造営、境内の整備が進められたが、昭和二十年、戦災のため 社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、占領軍の指令の下、一切の国家政府の公的な援助を断 たれたが、本殿は昭和二十八年、拝殿は昭和四十三年に県内外の崇敬者の浄財により復興された。 令和の天皇陛下のご即位の大典である大嘗祭には神代よりの古例に倣い、大正昭和平成の御大典 に殉じて、忌部関係者総力を結集して木屋平、山川町の里人と共に恙なく神御衣麁服の事業が奉 仕された。 当社は建築、織物の創始守護の神であり、近年は縁結び結婚の守護神としても知られる」 住 所:徳島県徳島市二軒屋町2‐48 電話番号: ひとこと:忌部氏の氏神様ですね。 忌部氏は斎部氏に字を変え、中臣氏と「神官としてどっちが重要か」てなことで競ったりしてま すが、割と知られてません。 でもそのおかげで『古語拾遺』が書かれたので、「争ってくれてありがとう!」ですけど(笑) 『古語拾遺』には日本書紀や古事記にないエピソードがいくつか盛り込まれています。 一つは御歳神が祟った話。白猪、白馬、白鶏を供えると、祟りは収まったと言います。 もう一つは豊玉姫のお産に際して、掃守が蟹を掃いた話。そんなことから、豊玉姫と「あわ(阿 波・安房)の関係は深いんじゃないかな〜となんとなく思ってます。 徳島随一の美しい山とされる、眉山の中腹にある神社です。 麓から階段で登ると、けっこうキツい。 駐車場がないと思ったんで、旦那は車の中で待っててくれました。 ……ら、車で登れたようで、本殿の横に結構広い駐車場がありました。 境内は高齢の参拝者が10人くらいいたかな? 階段を上ってきたのは私だけみたいでした。 少々息をあげながら参拝し、また階段を降りてましたら、登ってきた男女のうち、男性から声を かけられました。 「和泉ナンバーの方ですよね?」 って。 この後、若い人たちが登ってきたのとたくさんすれ違ったんで、下の和泉ナンバーの車に乗って きたのが私とは限らないと思うんだけど、妙に確信に満ちた聞き方でした。 ……歩きながら「でんがなまんがな」言うてたんやろかと首をかしげましたが、なんでやろ? どうやら、神社の境内で人が倒れていると通報があったそうで、様子を聞かれました。 でも、倒れてる人は見なかったし、何か事件があったような空気は一切ありませんでしたから、 いたずらかな? 2022年1月3日、忌部神社の境内で何か事件があったようなら、ぜひ教えてください。