hitokoto

厳島神社

itukushima-mitsuo





  祭  神:天照大神 国懸大神 少彦名大神 
  説  明:境内案内を転載します。
      「昔から此の地形一帯は地下泉の湧出する所極めて勘く、為に民家は筧によって
       濁水を湛え飲料水とした。
       然るに此処には清水滾々として湧出するので、いつの頃からか弁財天を勧請し、
       此の清水を神水として備進した帯で有名である。如何にこの地下水が神聖視さ
       れていたか伺い知ることが出来る。
       其処に人の住む限り院長水が欠くべからざる大切なものとして必ず保存し使用
       するべき筈である。
       従って、おそらくこの御井にて御幸せられしとき、弓削皇子が額田王に贈り与
       えた歌として、
       古に恋ふも鳥かも弓弦葉の
        御井の上より鳴きわたり行く
       と詠まれている(国家火鎮万葉歌集一一一号)
       三尾の地名とこの三井から訛りこの井戸を中心に発展したもので、当時弓弦葉
       の名木がこの井戸を掩うていたとの伝説があり有名である。」
  住  所:奈良県吉野郡東吉野村三尾
  電話番号:
  ひとこと:私がこの神社に参拝しようと思ったのは、東吉野村教育委員会発行の「東吉野
       の民話」がきっかけでした。

       ここに面白いお話が載っています。
       長くなるので、要旨だけを説明します。

      「三尾の弁天様はあまりに美人すぎて、十月になって他の神様がみな出雲の集ま
       ることになっていても、連れていってもらえなかった。だから、十月に残って
       いるのはこの弁天様だけだった。だから、十月の亥の子には弁天様を祀らなけ
       ればいけなかった」

      「弁天様は美人だったから出雲にいけなかった。他の地域では、十月は神無月だ
       けれど、三尾には弁天様がいらっしゃった。
       現在、亥の子と呼ぶけれども、本来は、「居残り」だったといわれている」

      「大水害があった時、弁天様が川に流れて来られた。
       三尾ではここ(現在地)で祀ろうということになったが、白屋から、『この神
       はうちの神様だから返してくれ』といわれた。それで返そうということになっ
       たが、さて、運ぼうとしても、どうしても持ち上がらない。そこで、『弁天様
       がこの場所を気に入ったんだろう』ということになり、この地に祀られるよう
       になったのだ」

       弁天様が美人だから・・・というのも面白いですし、
      「亥の子の日に弁天様を祀る」というのも面白い。

       なによりも、
      「十月は他の地域では神無月だけど、ここでは、神在月だった」
       というのは・・・つまり、ここは、出雲と一緒だったということですね。

       それが面白い。

       さて、まず、亥の子について調べてみましょう。

       柏書房の「こよみ読み解き事典」で「亥の子の祝い」を調べますと、こんな風
       に説明されています。

      「亥の子の祝い 旧暦10月の亥の日亥の刻
       全国各地(特に西日本)
       猪の多産にあやかり、亥の月(10月)のはじめの亥の日の亥の刻(午後9時
       から11時)に、新穀でついた亥の子の餅を食べ、無病と子孫繁栄を祈る年中
       行事である。(中略)
       亥の子の祝いが行われる旧暦10月上旬は、季節的には米の収穫が終わる時期
       にあたり、稲刈りが無事に終了したことを田の神様に感謝する収穫祭、つまり
       刈り上げ祝いの行事として、特に西日本で盛んに行われた。農村では、亥の子
       の神を田の神とし、田の神を祭る行事、収穫祭として祝うところが多かった。
       中国地方などでは、二月の初めての亥の日も『春亥の子』として祝いをする風
       がある。鳥取県下では、二月の亥の日を春亥の子といって祝い、神がこの日に
       田に降り、十月の亥の日に帰るとしている。つまり亥の子の神は、春現れて田
       の稲を守り、秋の取り入れの後に帰ると考えられていた」

       ちなみに同じ事典で、「神無月」を調べてみましょう。
       一般的に、10月、縁結びの相談をするためにすべての神が出雲に集結する。
       だから、出雲以外の国に神はいない。故に、「神無月」と呼ぶ。
       そして、出雲では同じ月を「神在月」と呼ぶのである。

       ・・・な〜ぁんて言う説明がされていると思いますが、どうもそれは、単なる
      「後付」の「俗説」であるようです。

      「十月を神無月とする語源については、『十月 かみなづき 出雲国には鎮祭月
       といふ』(順徳院『八雲御抄』)とあるところから知れるように、古くから神
       無月説が有力である。つまり、旧暦十月には全国の神々が出雲大社に集まり、
       男女縁結びの相談をするため、各地の神々が留守になるという信仰に由来する
       という(『下学集』『奥義抄』)。
       しかし、これには異説が多い。まず、『伊奘諾尊崩れ給ふ月なれば申すなり』
       として、天照大神などの父である伊奘諾尊の命日にちなむとする説がある。
      (『世諺問答』)次に、十月は雷の鳴らなくなる月、ゆえに『雷なし月』の意味
       だという説がある(『語意考』)。
       さらに、『神嘗月』『神祭月』または、『神の月』がカミナヅキの語源である
       とする説もある(『和訓栞』『東雅』)。
       現代では、十月は翌月の新嘗の準備として新酒を醸す月、すなわち『醸成月』
       の意からきており、神無月は当て字だとする説が有力である(『大言海』)。
       神無月の無は『の』の意で、『神の月』すなわち神祭りの月の意である、とす
       る説(『国語大辞典』)や、また、『神の月の意か。また、八百万の神々が、
       この月に出雲大社に集まり他の国にいない故と考えられて来た。また、雷のな
       い月の意とも、新穀により酒をかもす醸成月の意ともいわれる』という説明も
       ある(『広辞苑』)。
       一般的には『神嘗月』の意であると考えたほうが納得がいく。」

       ・・・これを読んで、広辞苑って、ただいろいろな説を集めてるだけの辞書な
       んだなぁとか思っちゃいましたが、まぁそれはともかく・・・

       これを読んでわかるのは、「神」は、10月に出雲へ行くというわけではなさ
       そうだということ。

       ただし、「亥の子の祭り」の説明を読み返してください。
      「亥の子の神」「田の神」は、10月の祭りの後、「帰る」のです。
       どこに・・・でしょう?
       もちろん、「神の国に」でしょう。

       古来、日本では、人は死ぬと神となると考えられていたという説があります。
       つまり、「田の神」とは「ご先祖様」に他ならない。

       役目を終えた、先祖神が神の国に帰るのが10月。
       亥の子の祭りあたりのことだというわけですね。

       そうすると、10月は、「神嘗月」でも、「神の月」でも「醸成月」でもなく、
       やっぱり「神無月」だった可能性は十分あるのではないか、などと思うのです。

       そうすると、です。

       神が神の国に帰る時になっても、「居残」っていた弁天様とは一帯・・・。

      「人間が(無理に)引きとめたから居残」
       ったのか。    

      「神の意志で居残」
       ったのか。

       美人だから妬まれて・・・、昔話はそう説明しています。
       でも、そうでしょうか?

       大体、「神」のすべてが、「田を守る神」なわけではありません。
       とはいえ、「風の神」も「水の神」も・・・多くの神が稲作と関係しています
       けれど。   

       しかし、まったく別の役割を担う神だっていたはずです。

       もしかしたら、この弁天様はそういう神だったのかもしれません。
       だからこそ、秋になっても人の村に居残った。

       吉野は、私がもっとも好きな場所です。
       そして、天武天皇・源義経・後醍醐天皇や南朝の皇子達・・・。
       多くの悲しい運命の人々が隠れた場所でもあります。

       なぜ?
       なぜこの地は、これらの人々を引きつけ、匿ったのでしょうか。
       その秘密が、この弁天様にあるような気がしてなりません。

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