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石田八幡宮

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  祭  神:仲哀天皇(足仲彦尊) 応神天皇(誉田別尊) 神功皇后(息長足姫尊)
  説  明:御由緒略記を転載します。
      「御創立
       欽明天皇御宇(537〜571年)此の田圃の中に岩船ありて、其の上
       に三神現じ給ひしより初めて社檀を築きて、奉祀せるものなり。

       御社号
       延喜式内 石田神社 又は 石田八幡宮と称す。

       例祭日
       七月十五日 ・ 十月十五日

       御神徳

       仲哀天皇
       当日しばしば九州熊襲の反乱がありて、国民が不安な生活を営むことが
       久しかったので、天皇は之を御親征になり、舟師を率いて海路筑紫に幸
       し給ひ、熊襲を討たれ、陣中にて崩御し給う。

       応神天皇
       仲哀天皇の皇子で御母は神功皇后にあたられる御方であります。八幡大
       神の主神にましまして、御在世中は深く内外の政治に大御心を用ひ給ひ
       学問、文化、殖産、興業、交通、経済等あらゆる面に、御治績を垂れ給
       ひ、爾来天皇は厄除開運の御神徳と共に、我が国文教の祖、殖産興業の
       守護神として、国民の崇敬するところである。

       神功皇后
       仲哀天皇の皇后にましまして、父は開化天皇の曾孫にあたられる気長宿
       禰王、母は葛城高額媛と申し、天日槍の後裔にあたられる御方でありま
       す。仲哀天皇と御一緒に九州に熊襲征伐に向はれ、天皇が陣中で崩御せ
       られた後も、女性の御身ながら、秘して喪を発せられず、懐胎の身をも
       って、男装して海を渡り、新羅を征し之を降し給うた。その後、高麗、
       百済も亦臣となり朝貢するに至った。爾来応神天皇を奉じて、政を攝り
       給うこと七十年余、御年百歳で、雅桜宮に崩御せられた。古来長寿の御
       神徳と共に、特に安産の守護神岩田帯の授与として民の崇敬するところ
       である。

       伝記
       当神社の北方(四拾間)を距てたる水田の中に、二箇の塚あり、東なる
       を幸神塚と云い、西なるを無名の塚なり、今は住宅地なれども、何れも
       高さ十五尺位の円錐形の小塚で、この塚の下に船に似たる長大の岩石あ
       りて、其の長さは、東塚より西塚に達し、全長貳拾余間に及ぶ、是れ上
       古航海せる、石船の難破して沈没せるものなりと石田神社の記事中に、
       岩船ありと云うはこの石船のことを指せるものなり、之を開拓せし者あ
       りしに大磐石あるを見たるも、暴風忽然として起こり、其の場に気絶せ
       りと云う。」
  住  所:大阪府東大阪市岩田町4−11−13
  電話番号:0729−64−6789
  ひとこと:神職さんに、ご由緒中にある「石田神社の記事」とは具体的にどんなも
       のかと尋ねたのですが、残念ながら、今ではわからないようでした。

       私が気になるのは、もう一つ。
       ここ、東大阪は、物部氏の根拠地であった八尾市のすぐ北であるという
       ことなんですよ。

       岩船と聞けば、まず、饒速日尊が河内は咆哮峰に降臨したとき乗ってい
       たという岩船を思い出しませんか?

       ここ、東大阪は、「河内」になるはす・・・。

       しかし、この岩船は、饒速日尊ではなく、応神天皇・仲哀天皇・神功皇
       后にご縁の深い船だと言います。

       う〜ん、不思議。

       また、神功皇后と岩田帯、そして、この石田(いわた)八幡宮の関係も
       興味深いです。

       もし、岩田帯の語源が、この石田八幡である・・・というのなら話しは
       早いのですが・・・。

       岩田帯を調べると、神功皇后との関係は推理できます。
       しかし、なぜ「いわたおび」というのかは、諸説あるようで、判然とし
       ません。

       しかし、神功皇后が、陣痛を修めるために、腹に巻いた、「鎮懐石」か
       ら、石と安産の関係は、なくはないんですよね。

       しかし、「岩田帯」が「鎮懐石」と関係があるとしても、その「石」は、
      「岩船」と関係あるんでしょうか?

       もし、関係ないとしたら、神功皇后は、「石」「磐」と関係の深い女性
       ということにはなりますまいか。

       神功皇后は、さまざまな顔を持つ女性です。

       応神天皇の母としての顔。
       仲哀天皇の妻としての顔。
       女戦士としての顔。
       美女としての顔。
       巫女としての顔。

       最も、池田弥三郎氏の「性の民俗学」を読んでいたら、古来、女性は皆
       巫女であり、また神の嫁であったと書かれていましたから、皇后たる女
       性が、巫女としての顔を持っているのは、「女性である」というのと全
       く同義かもしれませんが。

       神功皇后は、仲哀天皇の、熊襲征伐に際した占いの時、神懸かりの巫女
       となります。

       これは、天皇が、現人神であれば、その妻は巫女である・・・というよ
       うな考え方かもしれませんから、巫女であるということはつまり、天皇
       の妻であるということと同義かも、また知れません。

       財団法人法政大学出版局から発行された「南島説話の研究」によります
       と、「惟賢比丘筆記」には、「大隅正八幡本縁事」という記事があると
       書かれています。

       震旦国陳大王の娘・大比留女が、太陽の光を胸に浴びて懐妊。
       それを恐ろしいと感じた父王は、大比留女を皇子と共に「うつろ船」に
       乗せて流してしまうのです。

       母子は大隅の磯に流れ着き、大比留女は、「香椎聖母大菩薩」として、
       御子は、「正八幡」として崇められます。
       八幡大神とは、応神天皇のことですね。
       すると、大比留女は神功皇后ということに。

       これは、太陽により処女懐妊した女性と、その御子の話し。
       一種、キリストとマリアへの信仰とも似ています。

       花窟神社では、伊奘冉尊&軻遇突智尊の母子が祭られていますし、母子
       崇拝は、探せば各地で見られるかもしれません。
      「国母」として、玉依姫が祀られている神社に今まで数社ほど参拝しまし
       たが、もしかしたら、元は、違う女神だったかも・・・とも思います。 

       それは、偉大なる「子神」と、その母神が信仰の対象となるという構図
       かもしれませんし、
       聖なる懐妊をした女性と、その妊娠の結果である子神が信仰の対象とな
       ったということかもしれません。

       なんにせよ、「父」ではなく「母」なのですね。

       そして、記紀の中で、天皇崩御後、神功皇后は女性の身で海外へ戦に出
       かけています。

       ここにはいろいろな伝承が差し挟まれます。
       神慮により醜い顔になったので、男装をしたとか。

       そして、記紀では、皇后は、人が驚くほど美しかったとされています。

       ただ、記紀やその他の伝承で見る限り、
       神功皇后ご本人に関する伝承。
       神功皇后とその御子に関する伝承。
       そして、神功皇后とその忠臣であった武内宿禰公との伝承。

       これらは、それぞれ見てとることができ、それは、「豊か」な感じさえ
       受けますが、
       神功皇后と仲哀天皇についての伝承となると、仲哀崩御の引き金となる
       託宣の場以外、ヴァリエーションを知りません。

       そんなことから、ふと。

       この御祭神が、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后の三方であるということ
       に、疑問を持っちゃうんですね。

       実は、違う、親子三人だったのかも・・・と。

       そして、その母は、神功皇后と同じく、神の子を生み、その子は神の子
       だった。
       例えば、賀茂の玉依姫と別雷命のように。
       とすれば、親子三人のうち父神とは・・・。

       そう。その「神の中の神その神」ではないかと。

       岩船に乗って降りてきた親子三人神の伝承が、この地には残っていたの
       かもしれません。

       そして、その伝承が、いつしか、応神天皇とその両親となってしまった
       のかもと。

       そして、河内&岩船ということは、そこに、饒速日尊が絡む可能性も・・・。

       なんの根拠もないのですが・・・。

       ただ、河内&磐船ときて、饒速日尊の片鱗が全くないことに、却って不
       自然さを感じちゃったものですから。

       饒速日尊は、単独で降り立ったのでしょうか。
       妻と子が一緒ではなかったのでしょうか?

       もしくは、この地に降臨するに先立って、
      「聖なる処女とその御子」
       を生み出していた可能性も。

       そういう伝承が見つかれば、ロマンなんですけどねぇ。  

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