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石津太神社

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  祭  神:蛭子命(戎さん)
       八重事代主命(戎さん)
       天穂日命(石津連の祖先)
       建御名方富命(諏訪神社)
       誉田別命(八幡さん)
       靱大神(神宮奉齋会大阪本部)  
  説  明:御由緒書を転載します。
      「延喜式内社にして、我が国最古の戎社と称せられる当社は、伊奘諾命、
       伊奘冊命夫婦となり、蛭子命をお生みになられたが、命三歳に成られて
       も尚、立ち給ふこと能はざりしかば、天磐樟船に乗せて順風に放ち棄て
       給ひしに、船は波に従い飄々として海岸に漂着し命は其の携へ来りし五
       色の神石を此に置き給い、此の地を石津といい、其の船の着きし所を石
       津の磐山という。後遥に年を経て、五代孝照天皇七年八月十日初めて、
       宮柱太しく建て給ひて、蛭子命を祀り更に、八重事代主命、天穂日命を
       合祀する。平安朝以後、朝廷の御幸幾度かあり、神階も加増せられ、境
       内は八町四方を有し、社殿は甍を並べる壮観さを呈していたが、元和年
       間以後数度の兵火に罹り社殿は悉く烏有に帰した。のちに、豊太閤は大
       阪城築城に際し、当社を裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿
       復興のために黄金金若干を寄進したと伝える。全国に崇敬者あり、明和
       六年、江戸湯島天神へ、同年八月に坐摩神社で出開帳し、又、前年には
       神札頒布について、西宮神社との係争が和解したという記あり。明治四
       十一年十二月諏訪神社を合祀する。」
  住  所:大阪府堺市浜寺石津町中4−12−7
  電話番号:0722−41−5640
  ひとこと:ものすごく大雑把に言えば、「漂着神信仰」のお社といえるでしょうか。

       個人的には、天穂日命が石津連の始祖となっていることに、興味を覚え
       ます。
       
       天穂日命を始祖とする氏といえば、野見宿禰公から続く流れに菅原道真
       公がおられます。
       つまり、菅原氏・・・というか、土師氏と言うほうがわかりやすいかも
       しれません。

       土師氏を源とする氏はどれだけあるのでしょうか。

       日本の苗字七千傑の中の「土師氏」について拝見すると、
       野見宿禰公(ひいては天穂日命)を遠祖とする氏として、

       土師氏・民氏・高車氏・秋鹿氏・石津氏・贄土師氏・凡河内氏・菅原氏・
       大枝氏・秋篠氏・恵我氏・高野氏・大江氏・八島氏・蒔田氏・万代氏・
       神部氏・千島氏・庵原氏・毛受氏・御井氏が挙げられています。

       確かに、石津氏は、天穂日の末裔のようです。

       実は、私は最近、天穂日の末裔・・・つまり、野見宿禰の末裔とは何か
       と思い始めています。

       同じく野見宿禰公の末裔・・・大江氏に和泉式部がいます。
       和泉式部については、古本説話にエピソードが載せられています。

       それは、彼女の歌に貴船の神が感応したというもの。
       つまり、それだけ彼女の歌が優れていたということなのでしょうが・・・。
       歌により、神の心を動かす。
       何か「神官」に通じるものがあるように思うのですがいかがでしょう?

       また、彼女が貴船の神に祈ったのは、夫との復縁です。
       彼女の夫とは、藤原保昌公。

       この男性をご存知の方は多いでしょう。
       大江山の酒呑童子を退治した、源雷光の四天王のうちの一人です。
       大江氏の和泉式部と、大江山酒呑童子をうちまかした藤原保昌公の婚姻
       は、これまた何か意味深ですよね。

       また、彼女については、プチおば仲間の海老珍さんからこんな情報をい
       ただきました。

                    *****
      「太秦・蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)太秦和泉式部町という地名があり、
      『京都遺跡地図台帳』によると、そこに和泉式部塚古墳というのがある。
       そして、こう書かれている。
      『和泉式部塚古墳 現在木島神社の境内末社の椿丘大明神はかつてこの塚
       上に祀られていた。』」
                    *****


       いかがでしょうか?

       和泉式部については、古典の授業で、
       年下の僧侶と恋に落ちたのだが、実はその僧は生き別れの息子だった、
       などという話を聞きました。
       つまり、「なんだか後付っぽいエピソードの多い人物」だと思うのです。

       年下の僧侶と・・・は、年をとらない女性・・・八百比丘尼のことを連
       想させませんか?
       そして、今、京都遺跡地図台帳によれば、「和泉式部塚古墳」の上に、
      「椿丘大明神」が鎮座する・・・。

       椿といえば、八百比丘尼の象徴ともされる花で、比丘尼が全国に椿の苗
       を植えて廻ったという話が残っています。

       偶然かもしれませんが、何か気になる話です。

       そして、彼女の氏である「大江氏」は、大江山の酒呑童子となんの関係
       もないのでしょうか??

       そもそも土師氏とは、古墳の設営に関係の深い氏。
       つまり、「死」と関係の深い氏である、という言い方もできるかもしれ
       ません。

       その氏の中から、大祟り神である、菅原道真公が出て居るのは、決して
       偶然ではないかもしれません。

       そして、祟りといえば・・・。

       ・・・これは、ひくもんという友人から指摘されたことなんで、自分の
       発見じゃないのですが・・・

       もう一度、
       日本の苗字七千傑の中の「土師氏」についてを確認ください。

       土師氏の末裔に桓武天皇がおられることがわかりますよね?
       桓武天皇といえば、早良親王の祟りを恐れて、平城京から平安京に遷都
       したことでも知られています。

       土師氏の末裔である桓武天皇が、祟りを恐れて逃げ込んだ(というと、
       語弊があるとは思いますが)のが、秦氏が先住していた太秦に近い、平
       安京・・・。
       偶然でしょうか?

       何か、妙な符牒を感じちゃうんですけど、どうでしょう?

       ・・・そんな土師氏の一族である、石津氏。
       その石津氏が伝承するこの神社の言い伝えは、何かとても意味深いので
       はないか、と思えてならないんです。

       脚が立たないことを理由に川に流された蛭子命が流れ着いたのは、この
       地だとしています。
       そして、彼は、五色の石を携えていた、と。

       石津氏が、「死」「祟り」と関係がある、と考えれば、この伝承は、ぐ
       っと違う色合いを帯びてくるように思うのですがいかがでしょうか?

       まず、蛭子命について。
       親に流された子供。
       そこにはどのような意味があるのでしょう。

       流された子供の話については、私は不勉強でそれほどは知りませんが、
       東西詳しく調べれば、多分かなりの数に登るのではないでしょうか。
       まず、有名なところでは、旧約聖書のモーセでしょう。

       時のエジプトのファラオは、イスラエル人の赤ん坊を全て殺させよう
       としていました。
       モーセの母親は、生まれた子供を3ヶ月の間は隠しましたが、これ以
       上は隠し通せまい、と、ある日、水の染みない籠にモーセを入れ、ナ
       イル川に浮かべます。
       それを、ファラオの娘が見つけて、育てることになるんですね。

       これは、親が子供を助けるために川に流した例です。

       また、水の染みない籠というのも、火遠理命が兄の釣り針を探すため
       に、塩土翁が作った間無勝間の船を思い出させますね。

       そして、明宿集には、こんな一節があります。
      「業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空船ニ乗り、西海ニ浮カビ給イシガ、
       播磨の国南波尺師ノ浦に寄ル。」

       この文章の主語は、秦河勝公。
       和泉式部塚古墳にあったとされる椿丘大明神は、蚕の社の摂社です。
       そして、蚕の社とは、秦河勝公の氏神とも言える神社なのです。

       これも、偶然でしょうか?

       それはさておき、とりあえず、秦河勝公は、「祟るため」に自ら空
       船で流れたとされていますね。

       また、桃太郎も流された子供の一人でしょう。
       この場合は、流した人の事情はわかりませんが、結果としては、
      「良い人に拾ってもらうため」
       に流されたと言えるでしょう。

       モーセの場合も、これと同じですよね。

       つまり、蛭子命は、流す側の視線で描かれているため、
      「我が子を流すとはひどい親」
       という印象を持ってしまいますが、もし、蛭子命がどこに流れ着い
       てどのような成長をしたかということまではっきり描かれていれば、
       それは、「桃太郎」のような出世譚に発展していたかもしれません。

       そういう目で見れば、ここ、石津太神社の蛭子伝承は、「桃太郎」
       と同じく、拾った(流れ着いた)側の視線で描かれています。

       ただ単に、「五色の石を置いた」とだけ説明されていますが、この
       五色の石の逸話だけでも、桃太郎の鬼退治と同じレベルの活躍を意
       味する可能性はありますよね。

       五色・・・というと、どうしても、陰陽五行の五色(赤・青・黄・
       白・黒)を思い浮かべてしまいますが、この神社にある五色の石は、
       具体的にどのような色をしていたかまで説明されていません。

       ですから、「五色の石」がつまり何を意味していたのかはわかりま
       せんが、流れ着いた神は、大いなる福をもたらしたのでしょうね。

       しかし、秦河勝公に関しては、上記の文章にこう続きます。
      「蚕人船ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当初近離ニ憑キ祟リ
       給シカバ、大キニ荒ル、神ト申ス」

       つまり、流れ着いた場所で、祟って大いに荒れた、と。

       流れ着いた神が、全て福をもたらすとは限らないようなんです。

       そして、「祟り」は、菅原道真公とも通じます。

       どうも・・・その、「流れ着く」「土師氏」「秦氏」「祟り」「福」
       このあたりのキーワードも気になってきました。

       きましたが・・・。

       ここに見えるのは、男性原理的なキーワードでした。

       今回、ここに、和泉式部の女性的要素、
      「美女」「恋多き人生」「永遠の若さ」「椿」「歌の名手」
       などというものが加わったら、もう、しっちゃかめっちゃかですね。

       しかし、どうも、ここは見逃せません。

       大江山の酒呑童子が大江氏なのだとしたら、彼は力士の始祖である野
       見宿禰公を先祖に持つことになり、同時に「死」「祟り」のキーワー
       ドを背負っていることになります。
       そして、御伽草子を見れば、彼は長寿・・・永遠の若さ・・・を保ち、
       風流も解していたようです。

       このあたり、何か意味があるのではないか、何か・・・。

       日本の闇に息づいてきた「勢力」。
       そこに、どうやら、土師氏と秦氏の影は無視できないように思うので
       すが、いかがですか?

                    *****
                     後 記
       日本の苗字七千傑の管理人さんから、このようなメールを戴きました。
       勉強になりますので、お許しを得て、転載いたします。

      「新撰姓氏録和泉神別に『石津連、天穂日命十四世孫野見宿禰の後也』
       と記載あり。
       神名帳の和泉大鳥郡石津太神社は発祥の地と思われ、上古は石津郷、
       中古は石津庄近世は石津邑、現在は堺市石津地域として悠久の歴史が
       続いています。」

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