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伊射波神社

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鳥居の前に広がる海

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鳥居から参道

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領有(うしはく)神

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加布良古崎から望む海

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贄遺跡





  祭  神:稚日女尊 伊佐波登美尊 玉柱屋姫命 狭依姫命
  説  明:ご由緒書を引用します。
      「人里離れて、椨などの原生林に覆われた神域には、平成13年秋に造営された
       木造神明造りの本殿、拝殿と平成4年に新築された籠堂があり、神前に佇め
       ば、何がしか森厳さを感じさせます。
       当社は、古来より加布良古太明神、志摩太明神と呼ばれ、地元安楽島や近在
       では、『かぶらこさん』の愛称で親しまれてきました。
       志摩国の一の宮、式内伊射波神社の格式ある由緒は、延喜5年(905)醍醐
       天皇の勅命により、藤原時平、忠平らが編纂した『延喜式・神名帳』に、
       志摩国三座 大二座・小一座 粟島坐 伊射波神社 二座 並大
                     同嶋坐 神乎多乃御子神社 小一座
       と登載されているからです。つまり、安楽島の古名である粟島には、伊射波
       神社があって二柱の神が祀られ、格式はともに大社、小社として神乎多乃御
       子神社があるということです。
       大二座のうちの一座、伊佐波登美尊を祀った本宮は、安楽島町字二地の贄に
       ありました。昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、
       その全貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査報告』に報告されています。
       遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した複々合遺跡で、
       おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃、神水を得るための欅の巨
       木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡が発掘され、皇族、
       貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたことから、古代伊射波神
       社は国家にも崇敬された偉大な『贄持つ神』であった証と云えましょう。
       伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神
       の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田
       開発にも大きな功績を残したと伝えられています。
       後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射
       波神社に遷座されました。
       玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊瓊杵命の重臣で水の神として
       崇敬された天牟羅雲命の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定し
       た天日別命の娘と記されています。
       大二座のもう一座は稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射波神社。
       霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、
       朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けてい
       ました。
      「加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる待つは千世のためし、加布良古の
       沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の大明神に、遊
       びの上分参らする請玉の宝殿」
       これは今から461年前書き写された『外宮摂末社神楽歌』の最後の一節です。
       古来、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行われ、
       その様子を歌ったものです。
       加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、『この松は
       千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝
       を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから』という
       ものです。
       この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されま
       す。
      『神功紀』によれば、『尾田(加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡
       郡(粟島=安楽島)に居る神(稚日女尊)』とあります。稚日女尊は天照大
       神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬
       厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折も、常に御許においてお
       祭りされていました。
       狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご
       祭神でもあります。安楽島では、粟島と呼称されていたころ、神乎御子神社
      (小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻
       瀬とある)という島嶼にお祭りされていましたが、戦国の世地震によってそ
       の社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らに
       よって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。
  
       白水社『日本の神々』からも引用します。
      「鳥羽市の東北部安楽島町の加布良胡崎は、昔から『加村枯の瀬戸』と呼ばれ、
       付近には鍋釜落という海の難所もあり、絶壁の岬角には潮流が激突する。当
       社はこの崎頭の小高い丘の上にあるが、自然石の石段の両側には原生の老樹
       が繁茂し、風光はすこぶる佳い。
       祭神は伊雑宮と同じく伊射波登美命・玉柱姫命で、伊雑宮とともに志摩国一
       の宮であった。志摩国に一の宮が二社あった理由について確たる資料はない
       が、ひとつには、伊雑宮が伊勢神宮の別宮兼官社であったことから、民社で
       同じ祭神の当社を一の宮にせざるをえない状況が生じたのではないかとも思
       われる。また神領再興を叫ぶ伊雑宮神人の動静を気づかった鳥羽藩が、伊雑
       宮の対抗上、また神人の優越感を削ぐ意味で、もう一つ一の宮をつくったの
       かもしれない。
       当社は元来『加布良古神社』と称し、建久三年(1192)の『皇大神宮年
       中行事』に『悪志(あくし)。赤崎。加布良古明神』と記され、『外宮旧神
       楽歌』には『志摩国知久利(ちぐり)が浜におわします悪止・赤崎・悪止九
       所のみまえには、あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤崎のり玉う。舳には
       大明神(加布良古神)のり玉う。加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる
       待つは千世のためし、加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。
       加布良古の大明神に遊びの上分を参らする請玉の宝殿』とみえている。すな
       わち、古くから阿久志神社、赤崎神社(外宮末社)とともに有名な神社であ
       ったことがわかる。『志陽略誌』には『倭論語云う 志摩大明神と号す是な
       り。或人志摩国一宮と云う也。(中略)往古社頭地あると雖も、戦国より以
       来之を亡失す』とあり、『諸国誌草稿』には『文化年中鳥羽城稲垣摂津守深
       く本社を崇敬し、祭祀料として年々玄米十俵を付し、造営費の如きも亦其寄
       進にかゝりしが維新後その事止めり』と見えている。明治になって無格社と
       なる。
       当社の玉垣内には丸白石が敷き詰められていて、昔から漁民はこの白石を船
       霊として船中に安置し、豊漁を祈る慣習がある。古老の伝によると、白石を
       家に持ち帰ってはならないが、船守りとして持ち帰った場合には、後日必ず
       二倍にも三倍にもして社地に返さねばならなかったという。
       また病気平癒を願う者が深夜にただ一人この社に詣で、白木綿一反を敷いて
       待つと、御神体の白蛇が現れ、白布の上を這って祈願者の頭上を目がけて毒
       気を吐きかけてくる。それを恐れずこらえていれば、いかなる病も平癒した
       と伝えらえる。
       例祭は一月九日と六月七日。氏子はないが、氏神者満留山神社の氏子が崇敬
       者になっている。」
  住  所:三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210
  電話番号:
  ひとこと:『日本の神々』本文中、「古くから阿久志神社、赤崎神社(外宮末社)とと
       もに有名な神社であったことがわかる。」とあるんですが、阿久志神社がわ
       からない(^^ゞ
       
       ただ、「シャクシ」と母音が同じであることと、「悪止」というあてられた
       漢字の意味などから、中央政権とは別系統の信仰ではないかという気がして
       います。
       
       この神社の名前は、そのまま「イザナミ」とも読めるのが面白いですよね。
       祀られているのも女神ですし。
       
      『日本の神々』にある白石が敷き詰められた玉垣とは、領有神のことだろうと
       思われます。
       今もまだ丸い白石が敷き詰められていました。
       
       伊佐波登美尊を祭っていたという二地浦の贄遺跡は、本当に海の近くでした。
       雲出川も流れていて、交通の便もよかったはず。
       
       縄文時代から奈良時代にかけて人が生活した痕跡があるのですが、それなら
       ば当然あるべき「貝塚」がないんです。
       つまり、少なくとも縄文時代、ここには「ゴミ捨て場」がなかったってこと。
       それゆえに、この地は「神聖な場所」と見られていたのではないかと言われ
       ています。
       つまり、縄文時代からの聖地だったのではないか、と。
       
       なんにせよ、伊佐波登美尊は縄文中期から生活していた土着の人々が奉斎し
       た神である可能性も高そうです。
       
       風土記には、伊勢土着の神として伊勢津彦が登場しますよね。
       
       伊勢津彦(いせつひこ)と伊佐波登美(いざわとみ)。
       関係があるのかないのか、さてどっちでしょ?

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