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神須牟地神社

kamisumuchi





  祭  神:神産霊大神 天日鷲命 少名彦命
  説  明:境内案内を転載します。
      「延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年昔の御創建である。
       本社は、古来酒造、将又医薬の祖神として信仰厚く、又文武両道の守護神とし
       て御神徳顕著であった。
       本社殿は、慶長年間、兵火にかかったが、豊臣の浪人・多賀谷氏他4名の協力
       、元和四年八月二十一日再建された。
       元文元年九月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い、幕吏菅
       廣房に命じ『神須牟地社』『多米社』と刻せる石碑二基を双方の地に建立せし
       め、今尚現存している。

       境外末社 多米神社は延喜式内の古い社で、別名を『苗見神社』とも『種貸神
       社』とも言われ、崇敬された。
       御祭神 宇賀魂命・神稚魂神・保食神

       境内末社農神社は農耕の神として農民の尊敬された。
       御祭神 大己貴命」
  住  所:大阪府大阪市住吉区長居西2−1−4
  電話番号:
  ひとこと:神産霊大神というのも、何気に謎の多い神様です。
       まず最初に生まれでた神様のうちの一柱なのですが・・・。
       まず、男性性なのか、女性性なのか、そこからが異論・異説ぷんぷん!
       ・・・じゃなくて、紛々なのです。

       まぁ、神様なわけで、「性」とか「年齢」とかそんなものは超越してしまって
       いるんじゃないか、とも思うのですが(^^ゞ
       ちょっと、イメージしづらい神様だったりします。

       この神様は、古事記に登場する神様で、
      「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神。次に高御
       産巣日の神。次に神産巣日の神。この三柱の神は、みな独神に成りまして、身
       を隠したまいき」
       と記されています。

       続いて登場する神のうち、女神には「妹」という文字がついてますので、古事
       記においては、神産巣日神は男性神と見なしているようです。

       また、日本書紀本文には登場しないのですが、
       一書(第四)によれば、
      「天地がはじめて分かれるときに、初めて一緒に生まれ出た神があった。国常立
       尊という。次に国狭槌尊。また高天原においでになる神の名を天御中主尊とい
       うと。次に高皇産霊尊・次に神皇産霊尊。皇産霊・・・これをミムスヒという。」
       とありまして・・・。

       ますますもって、イメージしづらくなったのではないでしょうか(笑)

       ただ、日本書紀一書(第四)を見る限りでは、
      「天に生まれでた神」
       と、
      「地に生まれでた神」
       は、別々であった
       そう読めます。

       つまり、「天」と「地」は、独立した別々の世界(国)であった、と。

       そして、この神産霊神は、「天」側の最初の神の中の一柱であった、というわ
       けですね。

       そういうことを言い出すと、
      「地」は縄文先住民で、「天」は後着弥生民である・・・なんていう話しに発展
       しちゃいそうなので、この話しはここで置いときます。

       まぁ、高天原というのが、文化の進んだ国のことだ、という考えは、強ち変で
       はないと思うのだけれども(笑)

       ということで、神産霊神の性別に注目してみましょう。

       日本書紀本文に、こんな文章があります。
      「天地が開けた始めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚
       が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある
       物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれが神となった。国常立
       尊と申し上げる。次に国狭槌尊、次に豊茅渟尊と、全部で三柱の神がおいでに
       なる。この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じられた。だから純粋
       な男性神であった。」

       つまり、最初に生まれ出た三柱の神は、すべて男神であった、と。

       古事記において、最初に生まれ出た三柱の神は、天御中主神・高御産巣日神・
       神産巣日神ですが、ここに同じ理屈が当てはまるならば、当然、神産巣日神も、
       男性神だということになります。

       が。
       ど〜も収まりが悪いような気がするのです。

       陽があれば、必ず陰も発生すると思うんですよね。
       同じように「陽」の神が生まれているということは、「陰」の神も生まれてい
       るはずだ、と思われてならぬのですが・・・。

       例えば、結構安定した物質であるところの「水」は、プラスの磁力を帯びた酸
       素とマイナスの磁力を帯びた水素に分解されます。

       酸素だけが発生するなんてアホな話しはありませんよね?

       イギリスに「サマセット・モーム」という作家がいます。

       この作家さんは、「愛の皮肉」とでも言うような筋書きの小説をたくさん残し
       ています。
       ただ、彼は、それによって、「愛」を貶めているわけではなく、愛を皮肉るこ
       とによって、逆説的にそれを高らかに賞賛しているのだと思いますが・・・。

       まぁ、そういう作家の作品に、「赤毛」という名品があります。

       そして、その作品の中に、こんな一文があるのです。
      「二人がどれだけ愛し合っていても、必ず、愛するのは一方で、他方は愛される
       に任せているだけなのだ」

       中野好夫氏は、かなり違うニュアンス(愛されてやっている)で訳しておられ
       ますが、
       朱牟田 夏雄氏の翻訳文では、「愛されるに任せる」という表現をされていまし
       た。

       この文章をどう解するか、は、人それぞれで、私も最初に読んだ時には、今と
       違う感想を持ったものですが、今はこういう風に思っています。

      「どんなに愛し合う二人でも、片方が凸なら、他方は凹なのだ」(笑)

       恒久的に、「愛する一方」と「愛される一方」である二人の愛情関係が長続き
       するとは思えませんから、男が凸、女が凹の時もあれば、男が凹、女が凸のこ
       ともあり、その連続が「愛」なのだ、ということでいいのではないかと。

       もしくは、「二人の接合面の一部を見ると男が凸であり女が凹であるが、他の
       面を見れば、男が凹であり女が凸なのである」でもいいかもしれません。

       ただまぁ、世の中の「失恋の悲しみ」を聞いていますと、
       恒久的に「凹(凸)」であり続けられる、と錯覚していたものが、相手は、興
       味も体力もなくなったら、「凹(凸)」であることをやめてしまった。
       というパターンがかなり多いんじゃないでしょうか。

       いや、たまたま私の周りで起きる失恋騒動が、そのパターンを踏襲しているだ
       けかもしれませんが。

       そして、ほとんどが、「凸」が、「凸」であることをやめてしまう場合ですね。
      「凹」は、ある日、「凸」が「□」になってることに気づいて焦るんだけど、自分
       が「凸」になるという発想がないんで、「凹」のまま。
       せめて自分も「□」になりゃぁ、接触面積は広いんで、そのままズレずに済むか
       もしれないところを、いつまでも「凹」であることに固執するもんだから、ただ
       でさえ摩擦係数の低い人間という材質からすると、「□」と「凹」は、互いに滑
       り落ちるしかない・・・というような(笑)

       たまに、「凹」がいきなり「凸」になったりするのですが、そのダイナミズムに、
       元「凸」も今「凸」も耐え切れずに、これまた泥沼になってしまうという・・・。

       あ〜、また、話しが脱線しましたが、つまり、「陰」「陽」は双方バランスよく
       存在せねば、どこかで妙な摩擦が起きるんではないか、と、そういうことが言い
       たかったわけですね(^^ゞ

       なので、神産霊神は、女性性である、と考えるほうがしっくりくる、と。

       そして、また、この神様は、古事記では、少彦名命の親であると書かれています。
       つまり、この神社には、「親子」が揃って祀られているのです。

       そして、この神社のご神徳として説明されている「古来酒造、将又医薬の祖神」
       は、少彦名命のご神徳として有名だったりします。
       つまり、「子」の神徳が大きくクローズアップされているんですね。

       神産霊神は、「バックアップ」的な存在。
       そんなことを考えると、この親子神の仲は、かなり良好だったのでしょうね。

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