祭 神:豐玉姫命 鵜草葺不合尊 説 明:境内看板を転載します。 「当社は約二千年程前に九州方面より移住して来た南方系の採鉱冶金の術を知った部族 によって創祀されたものである。 明治初年神社改めの時の御神体は蛇骨であるのでもよくわかる。そこで此の時御祭神 を豊玉姫命と息子の鵜草葺不合尊の二柱に定めたものであろう。人身御供の伝説のあ るのも山部人が里人の娘を神社に奉納させたものである。後の人が岩見重太郎のヒヒ 退治伝説にからめたものであろう。 社歴では、康平年中(九一九年前)勧請とあるのは此の時に社殿を建立したもので元 中八年(五九三年前)管領細川頼元、厚く当社を崇敬し、地頭吉岡正春をして社頭を 管理せしめたが、天正五年(四〇〇年前)明智光秀亀山城築城により社頭は壌滅した が、慶長元年(三八一年前)守護代前田玄以によって復古され、社域九丁歩を寄進さ れ、免除地となる。宝永六年(二六八年前)三月十日社殿の改築を行い、現在の社殿 となる。明治六年村社に列格。国家公認の神社となる。徳川中期より、佐伯燈篭を一 翼にそろう神社である」 「河阿神社『人身御供』伝説 (生娘長持の台石) その昔、まだ山内谷の家々が草葺屋根ばかりだった頃、鎮守の森はうっそうと茂り、 大きなヒヒが住みつき、娘のいる家に白羽の矢を立てた。 ヒヒが神の化身と恐れる村人たちは、長年に亘り屋根にささった白羽の矢は神のお告 げとばかり、娘に白装束を着せ泣く泣く長持に入れて社殿正面に奉納してきた。ある 年のこと一人の武将が娘の身代わりとなり、長持に入り、芯や大捕り物の末ヒヒを退 治した。 その後平和な山内谷となったげな。 この石は当時生娘を入れた長持を置いた台石と伝えられている」 住 所:京都府亀岡市稗田野町柿花宮ノ奥8 電話番号: ひとこと:南方系の採鉱冶金の術を知った部族とは、どういった人々なのでしょう。 ポリネシアからやってきた……つまり縄文系ということでしょうか。 それで「蛇骨をご神体おしていたのでもよくわかる」っていうのは? 大阪の蛇草神社には、物部氏と蛇は関係が深いとありましたし、石見一宮の物部神社 では、物部氏と金属は関係が深いと聞きました。 個人的に、物部氏は縄文系の流れを濃く受け継いでるんじゃないかとも思うんですけ ど、どうなんでしょう。 日本書紀にある物部氏は、なんだか陰気ですけど、呪術をよくし、鳥に乗る人たちで すから。 どうかなぁ。 そこらへん、なんとも言えませんが。 としたら、「縄文系の製鉄の民」とは? 製鉄は奥が深いすわ~。