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金刀比羅宮

arasagoshi

本宮

arasagoshi

奥宮





  祭  神:大物主神 崇徳天皇
  説  明:境内案内を転載します。
      「『さぬきのこんぴらさん』の名で親しまれている金刀比羅宮は、ご祭神に大物
       主神と崇徳天皇を合わせお祀りし、瀬戸内海を望む瀬戸内海国立公園、名勝、
       天然記念物の指定を受けた景勝の地である象頭山(琴平山ともいわれます)の
       中腹に鎮まっています。
        創建された年代は明らかではありませんが、古来からの伝承によれば、早い
       時期から大物主神をお祀りして琴平神社と称し、すでに平安時代には幅広い
       信仰を集めていました。そして平安時代の末期永万元年(1165)7月には、
       保元の乱に遭って讃岐国に配流されたまま崩御された(亡くなられた)崇徳
       天皇の御霊を合わせお祀りいたしました。
        奈良時代に始まった神仏習合による本地垂迹説(世の人を救うために仏が
       神に姿を替えてこの世に出現したとする説)の影響を受けて、室町時代頃には
       金毘羅大権現と改称されており、金光院松尾寺の住職を金毘羅別当とする
       大神域に及ぶ組織が形成されていました。
        江戸時代中頃の桃園天皇の御世、宝暦3年(1753)12月に皇室の勅願
       所となり、同10年(1760)5月には日本一社の綸旨(天皇の命令文書)を
       賜り、明治初年に至るまで毎年春秋に皇室の安泰祈願が行われてきました。
        明治元年(1868)3月の神仏分離によって元の琴平神社に改められ、
       同年7月金刀比羅宮と改称して現在に至っています。
        ご祭神の大物主は、大国主神の和魂神であり、古来『海の神様』として漁業・
       航海など海上の安全を守ってくれる神としての信仰のみならず、農業殖産の神、
       医薬の神、技芸の神としても全国各地の人びとから篤い崇敬が寄せられ、特に
       江戸時代中頃から、海の神様として信仰した船乗りの人びとがその神徳を各地
       に伝えるとともに、十返舎一九や滝沢馬琴の読み物などの影響によって、『こ
       んぴら参り』がブームとなるなど、民衆の神様・庶民の神様として、身近な気
       やすさを感じさせる神様です。
        このような信仰のあらわれは、こんぴらにまつわるさまざまな説話や、奉納
       数多くの絵馬や宝物類を通じてうかがうことができます。金刀比羅宮は、皇室
       を始め平安貴族、戦国の英雄、江戸時代の大名、それにも増した庶民の絶対的
       な信仰を集めて、古今の多くの物語を包んで象頭の山の永遠に鎮まっています。
      『しあわせさん。こんぴらさん。』どうぞ参道の長い石段を登りつめ、大神様の
       大前に額ずいて皆様方の幸せをお祈りください」
       次に平成祭礼データにある由緒を転載します。
      「はじめ大物主大神を祀り、古くは琴平神社と称する。中古仏教の興隆に伴い、
       本地垂迹説の影響を受けて金毘羅大権現と改称し、永万元年(一一六五)に至
       って、御相殿に崇徳天皇を合せ祀る。明治初年(一八六八)になって神仏混淆
       を廃し、元の神社に復り、明治元年七月、特に宮号仰出され、金刀比羅宮と改
       称され現今に至る。
       御祭神は、大物主大神と申し、建速須佐男尊の御子、大国主神の和魂神に坐す。
       当宮は、大神が国土経営の砌、暫し行宮を営まれた御旧蹟と申し伝えられてお
       り、神代の昔より御鎮座せられている御縁深い旧社である。
       御相殿に鎮まります崇徳天皇は、第七四代鳥羽天皇の第一皇子で御名は顕仁。
       元永元年(一一一九)誕生、保安四年(一一二三)五歳で即位し、第七十五代
       の皇位を継承、永治元年(一一四一)に近衛天皇に譲位、後保元の乱にあい讃
       岐国綾郡松山(香川県坂出市)に配流せられ、世に讃岐院と称し奉られる。
       籠居九ケ年の間、金刀比羅宮境内古籠所に御参籠せられ、又親しく御宸筆を納
       められた由縁が有る。
       長寛二年(一一六四)八月二十六日崩御、御寿四十六歳。讃岐白峰陵(香川県
       坂出市)に葬り奉る。翌永万元年七月、御在世中の御縁故に依り、ひそかに御
       霊を迎えて御相殿に斎き祀る。
       桃園天皇御宇宝暦三年十二月、勅願所仰出され、同十年五月、日本一社勅願所
       たるべき旨、綸旨を賜り、爾来明治初年に至るまで、毎年春秋の二季に、禁中
       より御撫物を当宮別当に下して、宝祚悠久を祈らせる。そのほか、桃園天皇、
       後桜町天皇、後桃園天皇を始め暦朝皇室のすこぶる篤く、御代拝を差し遣わさ
       れたり、或いは金品の御寄付あらせられる事があり、光格上皇には天保十年、
       臨時御祈祷仰出され、孝明天皇には安政五年、文久三年の両度臨時御祈祷仰出
       される。また明治天皇には、明治十六年、御思召を以って御短刀一口御寄付仰
       出され、同二十一年には当宮保存会設立の趣を聞食されて金員を御下賜遊ばさ
       れる。近くは大正天皇、今上天皇の御参拝あらせられる等皇室の崇敬篤く、武
       門武将より一般市民に至るまで、広く信仰せられている。
       全国津々浦々からの参拝客は、毎年三百万から四百万。それぞれ深い御蔭を戴
       かれて居る。
  住  所:香川県仲多度郡琴平町892ー1
  電話番号:0877−75−2121
  ひとこと:金刀比羅さんは、金毘羅さん、琴平さんとも表記しますよね。
       昔の表記は、漢字はあまり関係なく、音だけに意味があることも多いんですが、
       この神社の場合も、仏教の「宮毘羅(くびら)神将」からきているという説が
       あったりします。

       奥宮には、「厳魂彦命」が祀られていますが、厳魂彦命は、生前、「宥盛」と
       いう名だったようです。
       
       宥盛は、戦国時代の別当。
       荒れていた金刀比羅宮を整備し、信仰を広めた人物で、死後は天狗となったと
       伝えられています。
       
       つまり、この山の修験道を広めた、もしくは開いた人物。
       
       ということで、修験道と関係の深い神社だとわかります。
       
       この神社は、「とにかく階段が多い」ということで知られています。
       
       鳥居から本宮まで、786−1=785段。
       なぜ−1かというと、一段だけ、下りの階段があるからなんですね。
       
       一説には、786は「悩む」に通じるため、一段減らして785段になるよう
       に調整したのだとか(^^ゞ
       
       また、本宮から奥宮までは、583段。
       
       古い神社の奥宮は、山の頂にあることも多く、登拝は慣れているつもりなんで
       すが(^^ゞ
       
       なぜすべて階段が整備されているかというとそれはつまり、
      「坂が急で、階段を築かないと登れないから」
       ですよね。
       
       ってことで、下りで膝を傷めてしまいました(T_T)
       
       登るのはね〜……。
       自分のペースさえわかってればなんてことないんですが、下りはどうしても、
       体重がかかっちゃいますから(>_<)
       
       ということで、この神社は、神仏混淆、修験道も混じった、本当に懐の深い神
       社だということになるわけですが、由緒にもある通り、江戸時代に『こんぴら
       参りブーム』があったことで、特に有名になったようです。
       
       中でも面白いなと思ったのは、この神社と犬の関係。
       
       ここには犬のお守りや、犬のおみくじが置かれているんですが、それには理由
       があるんですね。
       
       このあたり、お守りについていた説明を転記しましょう。
       
      「江戸の昔、一生に一度はと、人々が熱望した”こんぴら参り”。諸事情により
       お参りが叶わぬ時は、その願いを自らの飼い犬に託しました。
       飼い主の住所氏名や初穂料、えさ代が入った『こんぴら参り』と記した袋を首
       にかけ、長い長い道のりを、心優しい多くの人々の手助けを受けながら、立派
       に『代参』の務めを果たしたけなげな犬たちは、いつしか『こんぴら狗(いぬ)』
       と呼ばれ、親しまれたそうです」
       
       ううう……健気な(T_T)
       
       うちのあほ犬じゃあ、絶対無理なんで、私ら夫婦は自分たちの足で登りました
       が(笑)
       
       江戸時代の庶民のうち、どれほどの人が犬を飼ってたのかはわかりません。
       でも、こういう話が残る程度に、代参の犬が存在したのでしょうね。
       
       それぐらい、こんぴら参りは夢だったのでしょう。
       
       この日もたくさんの人が階段を登っていました。
       
       奥宮までの階段も、結構な人混み。
       
       会話を横から聞くと、どうやら、
      「パワースポット」
       として紹介されているようです。
       
       江戸時代の「こんぴら参りブーム」も、きっとこんな感じだったんでしょうね。
       歴史は巡ると言いますが(笑)
       
       なんかおかしくなったのでした。
       
       そういや、犬を連れてる人も多かったわ〜。
       いやぁ、なんかほのぼのしますね(#^.^#)

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