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水尾神社

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  祭  神:磐衝別命 比盗_
  説  明:境内案内を転載します。
      「本社創建は不詳で有るが既に天平神護元年(765)には神戸十三戸の奉充が
       あった。
       延喜式内の古社で東山道の官幣大社五座の中の二座(河南社・河北社)を占め、
       社域は現在より相当広大であった。本殿(元河南社)には垂仁天皇の皇子であ
       る磐衝別命を祀り、河北社(現在は本殿脇の小祠)には継体天皇生母振姫を祀
       っている。
       磐衝別命は此の高島の地を本拠として栄えた三尾君の祖であることは古事記・
       日本書紀に明らかである。姫宮である振姫は高島の別業高島宮に居られた彦主
       人王の妃で、越前三国より迎えられ、当社拝殿を産所として三児を出産された
       と伝えられる。此の皇子の一人、男大迹王が後の継体天皇となる。
       江戸期には八代将軍吉宗が、後の神輿一基を奉納。九代家重公は社殿を再建。
       共に現存している。
       境内には鎌倉中期の石灯籠や供養塔の残欠が数多く残っている。
       又、当社背後の杣山(三尾山)は、古来より歌枕としても有名で、万葉集をは
       じめ、数々の歌が詠まれている。
       五月雨に なほ川音も高島や
        水尾の杣山 雲もなかれむ」
      「当社は、延喜式内社(平安時代)、東山道の大社三百八十二座の中の、特に官
       幣大社五座の内二座を占め、祈年、月次、新嘗、例祭の年四回、天皇より奉幣
       があり、又明神大社として臨時の大祭にも奉幣がありました。
       当社の御祭神、磐衝別命は、当地の土俗神・猿田彦命の天成神道を学ぶ為に来
       住され、当地で亡くなった為、その御子磐城別命が背後の三尾山に葬り、父君
       をお祀りする水尾神社を創建されました。それから約百年後に、応神天皇の御
       子・速総別王も来住され、その四世孫・彦主人王は磐城別王の五世孫・振姫を
       三国より迎えて妃とし、振姫は当社拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太
       迹部王の三児を安産されました。太迹部王は後の体天皇であります。
       当社は高島郡の総社として、又歴代の将軍家の尊崇を得、統治者、政治家、経
       営者等、出世の紙として霊験あらたかであると共に、安産、子授け、厄除けの
       神として古来有名であります。」
  住  所:滋賀県高島郡高島町拝戸716
  電話番号:
  ひとこと:この神社は、「秀真伝」が伝わった・・・ということしか知らずにいたのです
       が、実際、古墳群が存在したり、実際に「古文書」が伝わったとしても、特段
       不思議を感じない雰囲気がありました。

       さて、「秀真伝」。
       ホツマツタヱと言う方が通りが良いでしょう。

       私が持っているホツマツタヱは、いわゆる、「ホツマ文字」と呼ばれる、「古
       代文字」で書かれていて、意味を読み解くことはできないのですが、アマテル
       神とその周囲の神々が織り成す神話群である、といって間違いはないかと思い
       ます。

       この古文書は、「偽書」として名高いのですが・・・。
       私は、「贋古文書」に全く意味がないとは思っていないんですね。

       だって、「日本書紀」「古事記」という、「正史」とされている書物さえ、実
       際の歴史を写したものではありません。

       しかし、多分確かに、「日本書紀」は、西暦7世紀ごろに編纂されたものでし
       ょう。

       それだけです。

       古い書物だから意味があり、書物としての歴史が深くないから意味がないとい
       うことはありえないと思うのです。

       むしろ、口伝で残されてきた歴史こそ、意味深いのではないかと思います。

       現に、今、口伝として残されてきたものや、家に代々伝わってきた書物を後世
       に残すため、今、物語として、発表しようとされている方もおられます。

       その方達が書いた書物を「偽書」と呼び、意味のないものとすべきでしょうか。

       否。

       そもそも、日本においても、古代より連綿とした戦の歴史がありました。

       日本書紀は、たまたま「朝廷」と呼ばれるようになった力のある「天皇」によ
       り編纂された「正史」に過ぎません。

       他の豪族が伝えてきた「正史」だってあるはず。
       その一つとして、「秀真伝」が存在してもおかしくはないはず、それが、私の
       スタンスです。

       さて、前置きが永くなりました。

       この神社の境内地には、拝戸古墳群と呼ばれる群集墳の跡地があり、高島町教
       育委員会による案内板がありましたので、引用しましょう。

      「拝戸古墳群
       拝戸古墳群は、六世紀に築造された群集墳で、直径十メートル前後の墳丘と、
       その内部に横穴式石室をもつ円墳群である。石室は通路に当る羨道と、棺を安
       置する玄室とからなり、数体から、時には二十数体が順次埋葬された。
       石室には鉄鋏や刀などの武器類、金環、勾玉などの装身具類、飲食物を入れた
       須恵器や土師器などの土器類が供えられた。
       六世紀になると、拝戸古墳群のような群集した円墳が各地に造られるようにな
       ったが、これは、これまでの首長の支配下にあった民衆が、生産力と社会的分
       業の発展により、家族ごとに次第に成長して築造していったことを意味してい
       る。」

       武器類があったということは、とりもなおさず、この地が、戦乱の地であった
       時代もあったということではないでしょうか。

       さまざまな有力人物が、この地に学びに訪れた・・・というのは、なんか、こ
       う・・・あの〜〜、ちょっと・・・なんですが・・・。

       この地の土俗神が猿田彦神であるとする説明には目を引かれます。

       その上、猿田彦神による新党・・・もとい、神道の名が、「天成神道」とは。

       記紀によれば、猿田彦神は天孫・瓊々杵尊が地上に降臨する際、道案内をした
       神であるとします。

       つまり、天と地の媒介者。

       この神が主催する神道の名が「天成」とは。
       猿田彦神は、本当に、「天から下った神を案内」しただけなのでしょうか。
       それとも、「天」に対して・・・。

       さて、もう一つ。
       磐衝別命について、ちょっとだけ見てみましょう。

       古事記によれば、彼は、垂仁天皇と、大国淵の娘である弟苅羽田刀弁の御子。
       妹に「磐衝比売」。
       磐衝比売の別名を、布多遅の入比売と言います。

       ふたぢのいりひめ。
       聞き覚えはありませんか?

       そう。
       大和武尊の最初の妃の名です。

       日本書紀では、「両道入姫皇女」と書きます。

       両道が入る・・・。
       そしてその上、彼女と兄の名は同じ「磐衝」を頂きます。

       気のせいかもしれませんが。
       全くの思い違いかもしれないのですが・・・・。

       そう考えると、磐衝別命には、大和武尊の影がちらつきませんでしょうか?

       大和の代表として、夷を討ったとされる大和武尊。
       その大和武尊が、「大和の祖神であるところの瓊々杵尊」を、「天」へ迎えに
       行った猿田彦神に、「天成神道」を学びに来、ここに祀られた・・・と考える
       と、非情に興奮するのですが(笑)

       なんにせよ、この地は、古代の息吹の残る場所。
       どんな不思議なことが起きていても、まったくおかしくないような気持ちにさ
       せられる場所なのです。

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