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中言神社

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名草戸畔が神武軍を迎え撃ったと伝わる名草浜





  祭  神:名草比古之命 名草比賣之命
  説  明:境内案内板を引用します。
      「南海道紀伊之国名草郡吉原村字名草山の麓字阪本壹千百番地の貮に存在す。
       五箇庄之産土神として例祭を旧九月八日名草比古之命、名草比賣之命の貮柱
       を併祀す。向かって右は天満天神、祭神菅原道真向かって左は八王子之神。
       祭神軻遇突知之命
       本社殿より東参町字鳥居壹千貮百七番地に在り。本社の貮之鳥居より一之華
       表まで東参町餘迠は宏大なる馬駆馬場なりしが天正拾参年の冠火に罹りて社
       殿宝物諸共亡滅し、現今にてはその跡形もなし。
       本国神名帳に曰く
       従四位上、名草比古之命、旧事紀に曰く大己貴之命、六世之孫豊気主之命を
       以て紀伊之国名草姫を妻となし一男を生む、又曰く天の香語山之命五世の孫
       建斗米之命を以って紀伊之国造智名曽之妹、中名草姫を苫となし名草比古之
       命は天之道根の命の数世の裔であり名草比賣之命はその妻である。夫れ當社
       は名草一郡の地主の神にして紀氏の祖なり。凡そ中言神社を建るには此の神
       社を以って本となし其の余村の里に中言之神明見祠と称し奉るは當社を遷し
       祀れり。往古は封境も宏大にして特に社頭も巍然として社領も若干在りしが、
       応仁の乱に億敗せられしを荘内の産子集会して造建して祭礼も荘厳に行われ
       しが、又亦天正拾参年冠火に罹りて亡滅し、今は古えの拾が一にも及ばずと
       元亀年間の綸旨其の外に依る寄附帳祭礼の儀式等の古記あり。其の内笠掛付
       手の式と云うは天治年間中禁庭に於いて笠掛犬追物流鏑馬是を三ツ物と云う。
       其のはじめは下野国奈須野腹の古狐を狩らしめられしと安房国住人三浦介義
       純、上総之国住人上総介廣常の両人を禁庭へ召し寄られて是を興業ありしよ
       り、三ツ物の初めなりと云う。
       斯の如く天正年間より慶長、元和、寛永、慶安、元禄、宝永、正徳、元文、
       延享、宝暦、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、慶応、の拾九代
       を経て明治四拾貮年に至り法掟に依り延喜時代即ち西暦九百貮拾壹年以降の
       無資格神社等を合祀にすべき旨の達示を受け冬野の名草神社に合祀す。
       
       林家に伝わる中言神社の由来記
       名草山麓吉原に鎮座まします中言神社は往古は名草郡五ケ庄(三葛、吉原、
       広原、冬野、朝日)の産土神で社域も広く一の鳥居は社の東方三町余りの
       所にあり馬場と呼ばれた、現在でも鳥居前の名は残っている。
       祭神は名草彦命、名草姫命、紀伊国造家の氏神として尊崇せられたが、中
       世以降は吉原、広原の氏神として近郷からも尊敬の的であった。尚本殿の
       左右に天満宮天神八王子神が祀られた。太閤様の御治世までは、社領とし
       て百貮拾石頂いていたが、その後はお沙汰がなかった。名草山を中心に、
       三葛、布引、冬野などにあちこち中言神社は出来たがこれらはみな吉原の
       中言神社から分祀されたもので、吉原のお宮さんを親神さんと呼んでいた。
       中言神社の由来を按ずるに、神武天皇御東征当時、名草戸畔の名で知られ
       た邑長時代に、その端を発し、この豪族平定後天道根命五代の孫、名草彦
       命は民を安じ、徳を施したその遺徳を慕うて祭祀せられたもので、古代か
       ら林家に残る古文書のうち、中言神社に関するもので、主なるものを年代
       順に略記すれば、
       一、古代名草郡の行政 大治二年(西暦1127)八月十七日
         神宅院郡司介、紀在判、郡許院司散位秦宿祢在判、三上野院司散秦宿祢在判
       一、寄進状 応永十五年(西暦1408)十一月七日 福在庵 妙法在判
       一、申付書 文安二年(西暦1445)三月二十一日為利在判
       一、安置五ケ庄四ケ郷おかさかけいての事 文安三年(西暦1446)九月 地頭御代官在判
       一、供米の證 宝徳三年(西暦1452)七月吉日 識久在判
       一、寄附帳 康正元年(西暦1455)九月十八日 三宅蔵人 通守在判
       一、座当の書付 明応三年(西暦1493)正月七日 連盟
       一、正規町天皇うすずみの御綸旨
         元亀元年(西暦1570)六月十五日権右中弁 定宗御在判
       一、殺生禁断の證文 享保十二年(西暦1727)二月 三浦遠江守御在判
                                 水野大炊頭御在判」
  住  所:和歌山県和歌山市吉原1100‐2
  電話番号:
  ひとこと:名草彦と名草姫を祀る神社の元社はここみたいですね。
  
       名草戸畔は、「神の声を聞くシャーマンだという説もあります」と、宇賀部
       神社の宮司さんはおっしゃってました。
       
       神の声を聞くとはどういうことなのでしょう?
       
       人間のような言葉で、
      「神武軍と戦うなら、夏にしなさい」
       と託宣を受けるのでしょうか?
       
       個人的にはそうではない気がします。
       
       最近、年をくったせいか、ときどきつくづく感じるんですよ。
       私たちがこの世に生きているというだけで、どれだけの愛や恵みを受け取っ
       ていることか、と。
       
       もちろん、「だから、つらいことがあっても音を上げるんじゃない」なんて
       説教につなげる気はありません。
       
       ただ、生まれてきたということは、この世に存在しているということは、想
       像を絶するさまざまな助けや、愛、涙なんてものを受け取ったからこそのこ
       とで、それなしにはあり得なかったろうと思うわけです。
       
       そういうことを感じとり、その感覚を分け与える存在だったのじゃないかと
       か、そんなことを感じたりもします。
       
       ただ、名草戸畔はどんな女性だったのかと想像するとですね。
       
       きっと、愛情深い女性だったんじゃないか。
       そんな気がします。

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