祭 神:大山津見神 天児屋根命 素戔嗚命 説 明:ご由緒書を引用します。 「小戸神社がいつ頃からお祀りされ始めたかという明確な創始年月は明らかで はありません。しかし史書をひもときますと、平安時代の延喜五年(西暦905) 醍醐天皇の勅命によりつくられた『延喜式』の第九巻『神名帳』に全国の由 緒ある神社2861社が取り上げられ、その中の摂津国河辺郡の部に『小戸神社』 の記載があります。この『延喜式』が編纂されたのは元慶年間(877~884) であり、小戸神社の創始はこれよりも更にさかのぼるものと考えられます。 現在の川西市地域には、小戸神社をはじめ加茂の鴨神社や平野の多太神社の 記載もみられます。 兵庫県川西市東多田2鎮座の九頭大明神の境内案内板を引用します。 「清和源氏の祖・源満仲公が天禄元年(970)摂津の国守に任ぜられたとき、 住吉大神のお告げによって矢を放ちました。矢は五月山の西北にある河水を たたえた湖に光を放って落ち、その湖の主として住む雄雌二頭の竜の内一頭 に当りました。一頭はこの地で死に一頭は山を突き破り、湖水は鼓を打つよ うな音をたてて滝となって流れ出ました。村人等は九頭竜のお蔭で田畑のひ らかれたのを感謝し、九頭明神とあがめおまつりしたのがこのお社です。 御神体の御霊は、九ツの霊石をお祀りして首から上の病にきく神として信仰 され、頭痛、歯病、眼の病等の平癒にきくと伝えられ、最近は人知れずこっ そりと頭のよくなるようにと祈る若者たちのおまいりが多いようです。 九頭竜の、ありがたや願いをここに 神の霊験あらたかなりけり 読人不知 附 突破って逃げた一頭は小戸神社の境内に白竜社としてまつられています。ま た対岸の部落は矢問といいますが、満仲公が放たれた矢を問いながら訪ねて こられたので矢問と名付けられました。 福本賀弘記」 住 所:兵庫県川西市小戸1-13-17 電話番号: ひとこと:小戸神社の詳細はわかりませんが、九頭龍伝承の舞台であるということで、 参拝しました。 能勢~川西の九頭龍伝説は、案内にあるように、多田満仲公が北摂の国守に 任じられたとき、居城をどこに築くかに迷い、住吉明神のお告げを得て矢を 射ると、湯小屋の森あたりに落ちたとするものです。 そこには、矢に撃たれた九頭龍が血を流しており、水害を起こして人々を苦 しめたとも。 大水の際、龍が流れ着いたのが、鶯の森。 そのそばに流れる黒川岸には白龍明神なる石碑があり、 春北明神・丸(?)高大神・一白大明神・八頭龍神・白瀧龍神 の銘があります。 このあたりは丹波の帰りによく通るんですが、その度に「鶯」の地名が気に なっていました。 鶯が鳴く山があったからこの地名がついたとありますが、そうなのかな? 鶯浄土の昔話もあるように、鶯にはもっと何か、深い意味があるように思う のですが……。 すごく大胆に想像すれば、吉原の前身のような、遊里です。 客神をもてなしつつ、里の人達は新たな遺伝子を受け取るといった、win-win の場がそこにあったんじゃないかとかなんとか。 すごいトンデモ妄想ですけどね(笑) 多田満仲公が放った矢は、湯小屋の祠あたりに落ちたとも。 湯小屋の祠は岐尼神社の御祭神である岐尼神が産湯をつかった場所でもあり ます。 とすれば、九頭龍の正体は、岐尼神??? このあたりには銀山があり、銅も採れたと言います。 九頭龍伝承を観れば、多田満仲公が先住の豪族を倒し、その地を奪ったと読 めますが、どうでしょうね。 もしそうだとすれば、岐尼神……九頭龍と呼ばれる人たちは、どんな暮らし をしていたのでしょう? 想像力をかきたてられますね~。