祭 神:五十猛命 素盞嗚尊 (合祀)大名牟遲命 大鷦鷯命 熊野杼樟日命 説 明:境内案内板から転載します。 「スサノオの埴舟が岩化した岩船大明神 スサノオとイソタケルが新羅の國から埴船(土でつくった船)に乗って船通山を越え、ここに降 り立ちました。 この『岩船大明神』は、その時の埴船が岩に化したもので、地上に出て居るのは2メートル程で すが、地下は数メートルにおよび、誰一人として動かすことはできないといわれています。 また、ここ鬼神神社の裏山には、イソタケルの御陵墓とされる墳墓があり、『御陵さん』と地元 の人は呼んでいます。 かつて、ここでは火の玉が多くみられ、それは御陵さんに舞い降りては船通山に飛んで行ったと されます。地元民は、ヤマタノオロチの怨霊『龍燈(頭)』と考え恐れました。 これを鎮めるためにはじまったとする『龍燈(頭)祭』が今なお続けられています」 「天平五(733)年撰上の出雲風土記の『爾多支枳小國』は此の地を指し、大呂は大風呂で大きな 森の意で神亀三(726)年大呂に改名、正倉が置かれてこの辺の中心を成じ、延喜式(927)所載 の官幣小社『伊我多氣神社』は當社である。 古記録に、四十代天武、五十四代仁明、五十五代文徳帝の時朝廷より幣帛が奉られ、仁明天皇嘉 祥四(851)年神階正六位に叙せられたとある。正安四(1303)年、三澤氏地頭として雨川へ入部 三澤郷(?)」を経て横田郷(?)、藤ヶ瀬(本城)を移す。永正十六(1519)年、三澤為國の 時、尼子経久に攻略され、大呂城、竹崎城、船通寺、観音寺、いずれも兵火に罹り、正宮伊我多 氣神社も焼失した。 御祭神は、霊力絶大で、『威武(いたけ)の神、邪氣、怨霊祈伏の神として鬼神伊我武明神と称 へた、とあり、大永年間三澤為忠、その子為國、永禄年間三澤為清、尼子清久、寛永年間堀尾忠 晴等が建立寄進した。 慶長九龍集辰菊月吉祥日、出雲國造千家元勝撰『出雲國仁多郡小國鬼神大明神縁起』一巻(一六 二)に、 出雲國仁多郡横田庄小國郷上巳や船燈山鬼神伊我多氣大明神者祭祀素盞嗚尊、五十猛神也延喜式 云五十猛神領地伊我多氣社是也干然中世錯乱者號単稱鬼神大明神也抑太古素盞嗚尊師其子五十猛 神降新羅國乃挙白比地吾不欲居遂以埴土作舟乗之東渡到出雲國簸川上所在鳥上峯其舟成岩干今在 社前止庶民崇敬岩船大明神也焉初五十猛神天降之時多州國之内莫不播殖而青山焉一宮記白大己貴 命兄五十猛神也 云々 平成十年八月七日 鬼神神社社務所」 住 所:島根県仁多郡横田町大字大呂2058 電話番号: ひとこと:伊我多氣神社は別の箇所にもあったのですが、本家争いでもしているのか……誰にも会わなかっ たため、ちょっとわかりません。 素盞嗚は土の船で船通山の麓に降臨し、簸川の川上から箸が流れてくるのを見て、人が住んでい ると知ったと言います。 それがここ鬼神神社のことだった……と。 いろいろよくわからないんですが、雰囲気の良い神社でした。