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大酒神社

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  祭  神:秦始皇帝 弓月王 秦酒公
       相殿:兄媛命 弟媛命(呉服女 漢織女)
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
      『大辟』称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(356)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避
       け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し、此地に勧請す。
       これが故に『災難除け』『悪疫退散』の信仰が生まれた。
       后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四(372)年百済より百二十七県の民衆一万八千六
       百七十余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。また、弓月王の孫酒公は、秦氏諸侯を
       率いて蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して
       山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、埋益(うずまさる)と言う意味で酒公に禹豆麻佐(うずまさ)
       の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社が大酒神社の側にありしが明暦
       年中破壊に及びしを以て、当社に合祀す。
       機織のみではなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに努め、農耕、造酒、土木、管弦、
       工匠等産業発達に多いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。
       今大酒の字を用いるは、酒公を祀るによって此字に改む。
       広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年政令に依
       り神社仏閣が分離され、現在地に遷し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇
       祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった時の当社の祭礼である。
       尚、603年広隆寺建立者、秦河勝は酒公の六代目の孫、また、大宝元年(701)子孫秦忌寸都理が
       松尾大社を創立。和同四年(713)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠と
       し、畿内のみならず全国に文明開化の発達に貢献した。秦氏族の祖神である」
  住  所:京都府京都市右京区太秦蜂岡
  電話番号:
  ひとこと:このあたりは秦氏関連の寺社がわんさかです。
      「おおさけ」神社といえば、坂越の大避神社が一番有名なのかなと思うのですが、功満王が兵乱を
       避けてきたから「大避」ってのはなかなかの珍説かも(^^ゞ

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