祭 神:一言主命 級長津彦命 級長津姫命 説 明:由緒書から転載します。 「旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より一五六〇年余(西暦四六〇)の昔、雄略天皇の四年十 二月晦です。 大神は、天皇との間に諸事有って大和の葛城山を出られ、舟に載って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸に御上 陸。海水煮炊き、火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であらせられたので、尊び 敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え、玉島(現社殿地)に迎えた。そして宮殿を建て大神を奉安し、 御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。 案内板から転載します。 「鳴神社は、須崎市浦ノ内湾の奥部に位置する。社殿は本殿・幣殿・拝殿より構成される。 当社がいつ頃よりこの地に在ったかは定かではない。幸いにして、享保八年(1723)に作事奉行濱崎藤十郎勝 廣が棟札の散逸を惜しんで、棟札写を作成しており、それによれば、初建立は鎌倉時代の建長三年(1251)で あるという。ただし、社伝では、創立は天正宝字(奈良時代)以前まで遡るといわれる。 現存する社殿は、江戸時代の寛文三年(1663)、二代土佐藩主山内忠義の命で再建されたものである。 忠義は寛文二年に当社へ初参詣の折、その荒廃した姿をみて、ただちに修復を命じたとされる。 以後、度々の修繕が行われたが、社殿は基本的に再建時の姿をそのままに伝えており、昭和二十八年(1958) に国の重要文化財に指定された。 昭和二十年代の一時期、当社は荒廃した時期が続いた。戦時中には屋根の杮葺きを修繕する材料が無く、杉皮 を重ねて雨漏りを防いでいたという。昭和南海地震(1946)では、当地に地盤沈下が起こり、社殿が傾く事態 となった。 そのため、昭和三十一年(1956)から翌年にかけて、全建物を一旦解体する大規模な修復工事が実施されてい る。修復以前は風雨により外装のほとんどが剥離していたが、この工事で丹塗り・漆塗りの復元がなされ、当 社は旧観を復するにいたった。 特筆事項 一、建築様式 三間社春日造 一、浦ノ内湾と背面の山々に社殿が映えるさまから、『土佐の宮島』と称される。 一、宝物に鰐口、八角型漆塗神輿、石灯籠、手水鉢などがある。 一、八月二十五日には、夏の大祭である『志那弥祭』が、旧暦八月二十三日には秋の大祭であるチリヘッポが 行われる」 住 所:高知県須崎市浦ノ内 電話番号: ひとこと:「鳴無」と書いて「おとなし」と読むようです。 興味深いのは、一言主神の別名をアジスキタカヒコネとしていること。 確かに、『続日本紀』では、一言主とアジスキタカヒコネを混同していますから、そういう解釈もありだと思 うんですけど、葛城に何度も足を運んでいる人間の実感としては、一言主とアジスキタカヒコネが同じ神様だ とは思えないんじゃないでしょうか。 雄略天皇の四年二月に、雄略天皇と一言主命の出会いが日本書紀に記されています。 葛城から高知までの海路はどの程度の時間がかかるのかわかりませんが、素人考えながら、1ヶ月はかからな いんじゃないかと思う。 とすると、二月に出会った天皇と神が、十か月弱で仲たがいしたことになるわけで、さて、何があったのか。 社務所におられた方は、神社のおかみさんのようで、 「御祭神が到着したのは神崎(こうさき)という地で、そこがどこかは、だいたい研究されているようです。船 を担いだ家の子孫しか、夏祭り・秋祭りの神輿を担げません。しかも、船の前を担いだ家の子孫は神輿の前、 後ろを担いだ家の子孫は神輿の後ろ、と、当時そのままの状況を再現するんです。長い間その家は十三家でし たが、近年二家が辞退されました。だから、御祭神がいらっしゃった当時は、十三家より多かったのかもしれ ません」 とおっしゃっていました。 偶然なのかもしれませんが、恩智神社の御供所の社家も十三家なんですよね。 「十三」という数字に意味があるのかもしれません。 「おとなし」の由来は、葛城から流れてきて泣いてらっしゃった神が、里人に迎え入れられて、泣きやんだから だとも、社殿のあたりにいていつも鳴いていた大神が、神のご鎮座以降鳴かなくなったからだとも言われてい るそうです。