祭 神:佐太大神 説 明:ご由緒を引用します。 「当社は出雲風土記に、佐太大神社あるいは佐太御子社とあり、三笠山を背に宏 大な大社造の本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三社とも称され、延 喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた御社である。 主祭神佐太大神(猿田毘古大神)は、日本海に面する加賀の潜戸に御誕生にな り、出雲四大神の一柱として崇められ、古くから導きの神・福の神・長寿の神・ 陸海交通守護神・鎮守の神として信仰されてきた。 御本殿は三殿並立で、中央が正中殿、向かって右が北殿、左が南殿、いずれも 大社造りで、この様な豪奢の三殿構えは平安時代末期に成立したようであり、 他に類を見ないもので、神社建築史の上で特筆すべきものである。現在の御社 殿は文化四年の造営であるが、その様式は古く、元亀年間の造営を踏襲してき たもののようである。国の重要有形文化財に指定されている。 摂末社:田中神社 御本社北殿の摂社で、西社は木花開耶姫命を祀り縁結、安 産。東社は磐長姫命を祀り縁切、長寿の信仰がある。 北末社:本殿北側に座す、山王社、宇智社、玉御前社、竹生島社。 南末社:本殿南側に座す、戸立社、振鉾社、垂水社、天神社 岡見八幡宮、橘稲荷社、客舎、宇多紀社 神在祭:十月を一般には神無月というが、出雲国だけは神在月と云っている。 社伝によると、正中殿の御祭神伊弉冉尊の神去りました旧暦十月に、八百万の 神々が当社に参集されるので、幟も立てず、神楽もあげぬ厳粛な物忌みを行う ところからお忌祭とも云う。この祭りには神迎神事、注連口神事、神去出(か らさで)神事、船出神事、止神送神事、柴刺神事、宿借神事などがあるので、 古来当社を『神在の社』とも云っている。 佐陀神能:御座替祭、例祭に執行する神事芸能で、その起こりは極めて古いも のとされ、出雲流神楽の源流といわれている。剣舞、散供、清目、御座、勧請、 手草、八乙女の七座よりなる採物舞と、祝言としての式三番、そして大社(佐 陀)、真切目、恵比須、八幡、武甕槌、日本武、磐戸、三韓、八重垣、荒神、 住吉、厳島の12座よりなる当社を始め諸社の縁起を演舞する神事舞からなっ ている。国の重要無形文化財に指定されている。 文化財:彩絵檜扇、龍胆瑞花鳥蝶文彩絵扇箱、色々威五十八間筋兜、色々威胴 丸、色々威腹巻(以上重要文化財) 蛭巻薙刀、野太刀、舞楽面、鰐口、線刻十一面千手観音鏡像、着彩阿弥陀来迎 図鏡像、御供台(以上県文化財)」 住 所:島根県松江市鹿島町佐陀宮内72 電話番号: ひとこと:この神社の神迎祭では、まず龍神の先触れがあると伝えられています。 稲佐の浜にウミヘビが漂着すれば、その後に続いて、八百万の神々が来訪する のだ、と。 しかしその八百万の神々とは、いったい誰なのでしょうか? 少なくとも、出雲を侵略した高天原の神々ではないと思うのです。 それに、「徒然草」第202段には、 「この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。」 という文章があります。 卜部氏の一族である吉田兼好の言葉ですから、 「勘違いじゃない?」 とは言えないでしょうね。 鎌倉時代頃は、八百万の神々が集うのは伊勢神宮であるとされていたと考える のが妥当じゃないでしょうか。 とはいえ、佐太神社に神々が集うという考えも別にあったというのが自然な考 え方ではないかと思います。 とすればつまり、いわゆる高天原の神々ではない、別の神々が集まったという ことでしょうね。 誰? 単純に、「出雲中の神様」と考えるべきかもしれません。 なんせ、古代の出雲は広かったでしょうから。 伊勢を支配していた伊勢津彦も、伊和大神の息子。 伊和大神=大国主ではないでしょうが、伊和の神々は出雲の神々と密接にリン クしています。 出雲の勢力は、伊勢あたりまで及んでいたと考えても無理はないと思います。 それであれば、「出雲中の神々」……出雲風土記に登場するような……が、あ る時期にここ佐太神社に集うのかもしれませんね。 とすれば、佐太大神がどれだけ重要な神であったかという証左にもなると思い ます。