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高宮神社

takamiya_neyagawa

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奥の宮:大杜御祖神社
御祭神:天萬魂命
住所:大阪府寝屋川市高宮317





  祭  神:天剛風命
  説  明:境内案内板を転載します。
      「高宮には、ここ高宮神社と大杜御祖神社の二つの神社があり、両社とも延喜式内社で、かつ親子関係の神社で
       す。
       一つのムラの中での、このような類例は、稀有のものといえます。
       祭神は『先代旧事本紀』(平安時代)に、高宮神主たちの祖先と記載されている天剛風命(あめのこかぜのみ
       こと)で、大杜御祖神社の祭神、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子神にあたります。
       江戸時代には、旧讃良郡内の一番の大宮として、『一の宮』とも呼ばれていました。
                  寝屋川市」
  住  所:大阪府寝屋川市高宮2‐11‐23
  電話番号:
  ひとこと:先代旧事本紀は、物部氏による史書と言え、長く日本書紀と同等の扱いを受けてきたと言われていますが、江
       戸時代の国文学者たちに偽書扱いされ、古事記にとってかわられた、気の毒な古書です。
       
       この神社は、先代旧事本紀に登場する神々を祀られているということで、物部氏のにおいがあるのかもしれま
       せん。
       
       そしてこのあたりは古代、讃良郡に属していたようです。
       そう、鸕野讚良皇女……持統天皇ゆかりの地ですね。
       持統天皇が物部氏と深い関係があるのならば、いろいろ見え方が変わってきます。
       
       私個人は、現天皇家は物部氏ではないかと考えています。
       
       日本書紀の記述は、新王家……日本書紀を編纂した時代の大和朝廷は、自分たちが正当な日本の王家であると
       主張する必要があった。
       そこで編纂されたのが日本書紀だと考えるのが自然です。
       
       そうであれば、大和朝廷以前のヤマト王権は、別の氏族が長だったでしょう。
       その氏族が何かと言われたら……日本書紀に登場する蘇我氏だと考えるのが、もっとも自然じゃないかと思う
       のですね。
       
       中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏と敵対していた氏族の有力人物。
       古人皇子や軽皇子(孝徳天皇)ら蘇我氏側の協力を得て、クーデターを成功させ、軽皇子を皇位につけた。
       しかし、孝徳天皇がうっかりしている間に、都は中大兄らに奪われてしまう。
       それがかの有名な
        金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
       であると考えると、スッキリします。
      「駒」を中大兄の妹である間人皇女だという説もありますが……下衆すぎません(^^ゞ?
       そして、スケールちっちゃすぎませんか(´-ω-`)
       私は「駒」=都と皇位だと思う。
       
       そして、同族だった中大兄と鎌足は、なんらかの理由で、天皇家と藤原氏に別れた。
       
       大海人皇子は新興の有力勢力じゃないかと思っています。
       
       中大兄……天智天皇にとっても無視できない新興勢力だったがゆえに、娘を二人も政略結婚させた。
       大田皇女と鸕野讚良皇女ですね。
       
       そして壬申の乱勃発。
       
       大田皇女の気持ちはわかりませんが、鸕野讚良皇女は激怒したのではなかろうかと。
       
       さて、日本書紀には、「『それは本当に天皇の子どもなのか』と疑われた皇后」が複数登場します。
       コノハナサクヤヒメ、サホヒメですね。
       そしてもう一人、神功皇后もまた、「それは本当に天皇の子なのか?」とツッコみたくなるような出産の仕方
       をしています。
       なぜそんな奇妙なエピソードを、「史書」に盛り込んだと思いますか?
       史実だから……じゃないですよね。そんな無駄なことをする理由はない。
       
       それよりも、日本書紀編纂に関わった三人の女帝たち……持統・元明・元正天皇たちの、気持ちがそこに乗っ
       かってるのではないかと私は思います。
       
       つまり、
      「草壁皇子は、本当に天武天皇の子なのかしら?」
       ってことです。
       
       当然、父親は天智系でしょう。
       
       天智天皇と藤原鎌足が物部氏であるというのは、東大阪の仲村神社や長浜の天川命神社など、物部氏とゆかり
       の深い土地で、藤原氏の祖である己己都牟須比命が祀られているからという、とっても浅い理由なんですけど、
       わざわざ「蘇我氏VS物部氏の対立」を日本書紀で書いていることからも、なんかにおう気がします。
       
       妄想なんですが、そう考えれば、持統天皇がどうしても大津皇子ではなく、草壁皇子を皇位につけなくてはい
       けなかった理由も、スッキリするんですよ……。
       
       持統天皇が好きなもので、そう考えたいんですよね(笑)

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