祭 神:天剛風命 説 明:境内案内板を転載します。 「高宮には、ここ高宮神社と大杜御祖神社の二つの神社があり、両社とも延喜式内社で、かつ親子関係の神社で す。 一つのムラの中での、このような類例は、稀有のものといえます。 祭神は『先代旧事本紀』(平安時代)に、高宮神主たちの祖先と記載されている天剛風命(あめのこかぜのみ こと)で、大杜御祖神社の祭神、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子神にあたります。 江戸時代には、旧讃良郡内の一番の大宮として、『一の宮』とも呼ばれていました。 寝屋川市」 住 所:大阪府寝屋川市高宮2‐11‐23 電話番号: ひとこと:先代旧事本紀は、物部氏による史書と言え、長く日本書紀と同等の扱いを受けてきたと言われていますが、江 戸時代の国文学者たちに偽書扱いされ、古事記にとってかわられた、気の毒な古書です。 この神社は、先代旧事本紀に登場する神々を祀られているということで、物部氏のにおいがあるのかもしれま せん。 そしてこのあたりは古代、讃良郡に属していたようです。 そう、鸕野讚良皇女……持統天皇ゆかりの地ですね。 持統天皇が物部氏と深い関係があるのならば、いろいろ見え方が変わってきます。 私個人は、現天皇家は物部氏ではないかと考えています。 日本書紀の記述は、新王家……日本書紀を編纂した時代の大和朝廷は、自分たちが正当な日本の王家であると 主張する必要があった。 そこで編纂されたのが日本書紀だと考えるのが自然です。 そうであれば、大和朝廷以前のヤマト王権は、別の氏族が長だったでしょう。 その氏族が何かと言われたら……日本書紀に登場する蘇我氏だと考えるのが、もっとも自然じゃないかと思う のですね。 中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏と敵対していた氏族の有力人物。 古人皇子や軽皇子(孝徳天皇)ら蘇我氏側の協力を得て、クーデターを成功させ、軽皇子を皇位につけた。 しかし、孝徳天皇がうっかりしている間に、都は中大兄らに奪われてしまう。 それがかの有名な 金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか であると考えると、スッキリします。 「駒」を中大兄の妹である間人皇女だという説もありますが……下衆すぎません(^^ゞ? そして、スケールちっちゃすぎませんか(´-ω-`) 私は「駒」=都と皇位だと思う。 そして、同族だった中大兄と鎌足は、なんらかの理由で、天皇家と藤原氏に別れた。 大海人皇子は新興の有力勢力じゃないかと思っています。 中大兄……天智天皇にとっても無視できない新興勢力だったがゆえに、娘を二人も政略結婚させた。 大田皇女と鸕野讚良皇女ですね。 そして壬申の乱勃発。 大田皇女の気持ちはわかりませんが、鸕野讚良皇女は激怒したのではなかろうかと。 さて、日本書紀には、「『それは本当に天皇の子どもなのか』と疑われた皇后」が複数登場します。 コノハナサクヤヒメ、サホヒメですね。 そしてもう一人、神功皇后もまた、「それは本当に天皇の子なのか?」とツッコみたくなるような出産の仕方 をしています。 なぜそんな奇妙なエピソードを、「史書」に盛り込んだと思いますか? 史実だから……じゃないですよね。そんな無駄なことをする理由はない。 それよりも、日本書紀編纂に関わった三人の女帝たち……持統・元明・元正天皇たちの、気持ちがそこに乗っ かってるのではないかと私は思います。 つまり、 「草壁皇子は、本当に天武天皇の子なのかしら?」 ってことです。 当然、父親は天智系でしょう。 天智天皇と藤原鎌足が物部氏であるというのは、東大阪の仲村神社や長浜の天川命神社など、物部氏とゆかり の深い土地で、藤原氏の祖である己己都牟須比命が祀られているからという、とっても浅い理由なんですけど、 わざわざ「蘇我氏VS物部氏の対立」を日本書紀で書いていることからも、なんかにおう気がします。 妄想なんですが、そう考えれば、持統天皇がどうしても大津皇子ではなく、草壁皇子を皇位につけなくてはい けなかった理由も、スッキリするんですよ……。 持統天皇が好きなもので、そう考えたいんですよね(笑)