祭 神:下照比賣命 (配祀)味耜高彦根命 (合祀)天兒屋根命 少彦名命 素盞嗚男命 菅原道眞 説 明:境内案内板を引用します。 「下照比賣命は 欽明天皇元年八月玉津岡の南峰に降臨され聖武天皇天平三年九月井堤左大臣橘諸兄 公現在の地に遷座し今日に及ぶ 歌道女徳を養い家内の和合を守らせ給ふ御神なり 天児屋根命 元春日社 少彦名命 元田中社 素戔嗚男命 元八阪社 味耜高彦根命 元天神社 明治十一年十月八王子社殿(玉岡の社)に合祭し、明治十二年十二月玉津岡神社と 改稱す。 菅原道真公 元有王天満宮 明治二十三年四月に合祀す 昭和四十年四月三日記」 住 所:京都府綴喜郡井手町井手東垣内63 電話番号: ひとこと:鳥取県伯耆の国にも、下照姫が降臨したとする伝承が残るようです。 伯耆の国は日本海に面していますから、渡来の人々がいろいろな文化を携えてやっ てくることもあったでしょうが、ここ綴喜郡に降臨した「下照姫」はどのような女 神だったのでしょう。 このすぐそばには、小野小町の墓と伝わる石碑があります。 案内板には、 「小野小町塚 小野小町は、平安時代前期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人として知られてい ます。しかし仁晃天皇(在位833~850)の時代に宮廷に仕えた歌人である事 は確かですが、その生涯は謎に包まれ、終焉の地は、ここ井手町以外に京都市他、 秋田県、山口県など全国各地に散在しています。 『冷泉家記』によると『小町六十九才井手寺に於いて死す』とあり、『百人一首抄』 にも、『小野小町のおはりける所は山城の意での里となりなん』と記されており、 古来『大妹塚』と称されてきた井手の『小町塚』は、中でも信憑性のあるものとさ れています。 世に伝えられる小町の晩年の零落の姿は、絶世の美女であったが故に語られた伝説 で、歌枕として数多くの歌に詠まれるここ井手の里で、山吹の咲きこぼれる玉川堤 を散策しながら、穏やかな余生を過ごした事と思われます。 色も香も なつかしきかな 蛙 鳴く 井手のわたりの 山吹の花」 『小町集』にある和歌のようですね。 馬琴の『兎園小説』にも、小野小町は、最低でも八人はいたはずと書かれていまし たから、江戸時代にはすでに、小野小町は伝承上の女性である可能性が高いという 感覚があったのでしょうね。 そして、小町のモデルとなったのは、美しく和歌の才を持つ女性でしょう。 そしてさらに、少し岡を登ったところには、女芸上達の神とされる「左馬」も。 案内板を見ると、 「数百トンもの花こう岩に刻まれた半肉彫りの左り馬は『女芸上達の神』つまり女性 の習い事の一つである裁縫や茶法、生け花、ひいては舞踊などを志す人の守り神と して古くから信仰の対象になっていた。 作者や制作年代は不明であるが、躍動的な象徴を持つことから鎌倉時代のものだろ うと思われている。 元は、玉川左岸の山腹に鎮座していたものであり、遠く京都や大阪から参拝する人 も多かったと聞く」 玉川の岸辺に鎮座し、水の神であるとの伝承もあるようです。 水の神と馬は、ご縁が深いですもんね。 そして水の女神といえば、弁天様のような芸能の神を思い浮かべます。 つまり、このあたりは、芸能の才を持つ女性が集まった場所なのではないかという 気もします。 女性たちが集まり、祈った場所。 その地に鎮まる神としては、やはり下照姫がふさわしいのでしょう。 私の書く文章はわかりやすいのが一番大切。 決して芸術的であってはならないんですけれど(^^ゞ しっかり祈ってきましたよ。