祭 神:大山祇神 譽田別命 名草戸畔のお腹を埋めたと伝えられる神社 住 所:和歌山県海南市阪井1858
祭 神:草野姫命 名草戸畔の脚を埋めたと伝えられる神社 住 所:和歌山県海南市重根1125
祭 神:宇賀部大神 荒八王子命 誉田別命 説 明:ご由緒書を引用します。 「古記録は戦国時代の兵火で消失して、由緒を尋ねる確たる典拠がない。 しかし鎌倉期よりの神職、小野田家所蔵の文書によれば、「山城国、愛宕神社を 勧請す」とあり、古来、祭神三柱の中央祀神たる「宇賀部大神」を「迦具土神」 (火の神)とする説に附合する。 また一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった名 草戸畔の首級を祀るともいわれ、往古より頭の守護神として、「おこべさん」の 愛称で広く親しまれてきた。 荒八王子命は、もと現在地の東方百米に、若宮八幡神社は南方約四百米高倉山の 中腹に鎮座していたが、宝暦四年(一七五四)、本殿新築に際してこの地に合祀 された。 当神社は『紀伊続風土記』によると、「一村の氏神にて社殿壮麗、宮作及び境内 の形状、尋常村落の産土神とも見えず、必ず古官知の神にして後世その神名を失 ひしものならん」とあり、古くは由緒ある知名の神社であったが乱世を経て、衰 微したようである。 元来、頭病平癒の神として尊崇されてきたが、現在では学業成就や入試合格等を 祈願する若人の数が増え、四季を通じて祈願者の後は絶えない。 名草戸畔伝説 名草戸畔は、名草山の東麓・吉原の地に本陣を構えた豪族の首長であった。太田 亮氏の『姓氏家系大辞典』にもあるように、「名草戸畔のことは厳然たる事実で あって、何らかの大事件が起こったことは、この地方の伝承で伺い知ることがで きる」と記している。 時は日本の黎明期、各地には豪族が割拠して覇を競い合っていた。日向では頭角 を現した伊波礼毘古命(後の神武天皇)兄弟が、九州を勢力下に収め、行く行く 各地を平定しつつ、一路、大和を目指して攻め上ろうとした。だが紀ノ国では、 思わぬ抵抗勢力の反撃に苦汁を強いられる羽目となった。「毛見ノ浜」に上陸し た東征軍は、これを迎え撃つ名草戸畔の軍勢と死闘を繰り広げた。東征軍は皇兄 の五瀬命を失い、鎮魂の地には竈山神社が創建された。一方、名草戸畔はここを 先途と勇戦奮闘したが、その甲斐もなくあえない最期を遂げた。 そこで邑人は泣く泣くその頭を携え、小野田の里に身を潜め、高倉山の北麓にあ るこの小高い山に葬ったのが、「おこべさん」の由来だと言われる。」 住 所:和歌山県海南市小野田917番地 電話番号: ひとこと:伝説によれば、神武天皇東征の折、殺害された名草戸畔は、頭・胴体・脚の三つ に切断され、それぞれ宇賀部神社、杉尾神社、千種神社に祀られたといいます。 ですが、例えば杉尾神社は、「大蛇のお腹を埋めた」と伝えているようです。 そのことを、ここ宇賀部神社の宮司さんは、 「やはり、神武天皇と戦った逆賊ということで、表には出なかったということかも 知れません」 とおっしゃっていました。 名草戸畔が女性なのか男性なのかはよくわかりません。 ただ、名草の人々を統べた首長であることは間違いないでしょう。 神社に貼られてあったポスターでは、 「名草戸畔が女性であれば名草姫、男性であれば名草彦」 というような表現がされてありました。 そうかもしれませんし、名に「とべ」がつくのは女性な気もします。 よくわかりません。 ただ、歴史から消された人物である名草戸畔が、口伝で伝えられているとも書い てあり、それならば読んでみたいとも思ったのですけど。