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宇流冨志禰神社

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  祭  神:宇奈根命 天照大神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 大物主命
       火之迦具土命 宇迦之魂命 応神天皇 仁徳天皇 建速須佐之男命
  説  明:御由緒書を転載します。
      「当社は往古より現在地に鎮座ましまし名張の鎮守神なり。明治四十年
       各宇々の村社無格社稲荷神社、愛宕神社両社八幡宮、金毘羅神社、八
       坂神社と許可を得て合祀す。
       由緒は天正兵火に罹りて不詳只古老諸記に散見するのみにして延喜式
       内国史現在の神にして伊賀二十五社の内なり、延喜式には所謂祈年の
       奉幣と云ふ。
       右は類聚国史に見えたり延長風土記曰く宇流冨志禰神社在平尾村三国
       地誌に名張郷簗村宇流冨志禰神社圭田亦四十二束四ヶ所の神田を以っ
       て祭祀すとあり天武天皇三年始加祭礼神事圭田亦五年八月放生会を行
       わるとあり。
       主人宇奈根神は古老の言によれば神武建国の始一国に瑞穂の祈願する
       為に祭られしものなりと。
       天照大神は崇神天皇六十六年伊勢遷幸の折、鮎取淵梁作瀬鱗を進むと
       云うに起こり、簗瀬は名張の別名にして遷座の時扈従の舎人二人あり、
       源五荘賀と称し後世之を襲う其の先駆の榊を植し地を榊村と称す。古
       此所馬場先にして入口に大鳥居あり。何頃に廃せられしや現在には大
       石鳥居あり。
       武甕槌・経津主・天児屋根の大神は、奈良遷幸の途次立ち寄られしに
       より奉齋せられしならん。
       三代実録貞観三年夏神階従五位下同十五年従五位上次第に進みて後円
       融天皇永徳元年従一位に此は園太歴に見えたり。
       其地歴代祭祀を賜り、文徳天皇仁寿元年臨時官幣を奉らる十一度に及
       び月並祭には国司より幣帛を奉られしも鎌倉開府以来御廃止となり幣
       物を賜らず、天正三年織田信雄当国を征伐し当社の寄附も設収せられ
       社頭も数度の兵火に罹り数多の神事も絶えたれども松倉豊後守勝定当
       国の居住せられ尊敬不浅多くの地所を寄附せられ氏子輩も再建して神
       威新なり。
       寛永十三年藤堂宮小輔高吉移住の後は田畑山林若干町を寄附祭祀には
       乗馬を出され祭礼神事も隆盛に向いつつありて現在に及ぶ。」
  住  所:三重県名張市平尾藤乃木
  電話番号:0595−63−0486
  ひとこと:名張の神社には、「武甕槌・経津主神遷座の折、立ち寄られた」とい
       う伝承を持つ神社が多かったです。

       つまり、鹿島神宮のご祭神である武甕槌神と、香取神宮のご祭神であ
       る経津主神が、春日大社に迎えられる途中、名張のあちこちの神社に
       立ち寄られているようなんですね。

       しかし、鹿島・香取両神宮から、武甕槌神と経津主神を遷し奉ったと
       されるのは、藤原不比等公。

       武甕槌神と経津主神は、藤原氏の氏神様なので、それは別に不思議じ
       ゃないのですが、これらの神々を遠く常陸からお迎えしたというのは、
       この神々の故郷が常陸だということ?
       そして、その氏子であるところの藤原氏は常陸出身ということ??

       そこらへん、イマイチしっくり来ないんですよね。

       どっちかというと、武甕槌命と経津主命に「なにがしか」の意味づけ
       をするために、常陸から遷座したことにした(そしてその時、常陸に
       鹿島・香取両神宮を創建した)・・・という妄想の方がしっくりくる
       んですが・・・妄想です。

       ちなみに続日本紀では、和銅三年の平城京遷都のことは記載されてい
       ますが、鹿島・香取神の遷宮については記されていません。

       さて、宇奈根命について見てみましょう。

       思文閣出版の「神名の語源辞典」にある「宇留富志祢神社」の項を引
       用すると、
      「元の名は宇留布布志祢であったが、布が一つ落ちて布→富となった。
       すなわち『潤ふ伏水』であった。」

       つまり、地下水が豊富な地だったのでしょうね。
       そして、宇奈根命は、瑞穂の祈願する為に祭られたと。

       宇奈根は、「美味稲=ウマネ」だったのかも?

       でも、「宇留布布志祢」「ウルフフシネ」が、「潤う伏水」という意
       味ならば、「ネ」は「水」。

       稲が育つためには水が必要不可欠ですから、その可能性も十分ありそ
       うですね。

       確かに、この宇流冨志禰神社を囲むように、名張川と青蓮寺川が豊富
       な水をたたえて流れていました。

       それにまだ、地下水も豊富ならば、この地はまさに、「水の宝庫」。

       人が生活して行く上で、大切なのは、まず、太陽、そして水ですね。

       しかし、太陽・・・もちろん、緯度による違いはあるにしても、ある
       程度公平に分け与えられます。
       しかし、水は・・・。
       人は水を求めて移動せねばなりません。

       水の方からやってくることは、滅多にないことですよね。

       だから、古代において、いろいろな人々が水を求めてこの地にやって
       来た可能性は高いんではないでしょうか。

       そこまで考えると、武甕槌神と経津神が名張に立ち寄った意味も、な
       にやら意味ありげに思えるのですが・・・。

       つまり、武甕槌神と経津主が日本の東端から都へと移動した意味とは。

       途中の良き地を併合するための方便だったのでは?
       ・・・などと。

       なんにしても、この遷座、なにやら一筋縄ではいかない意味を持って
       いるように思えてならないのですが・・・。
       妄想です(笑)

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