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五條宮

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  祭  神:渟中倉太珠敷天皇 息長広姫皇后
  説  明:渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)
       とは、敏達天皇のことです。蘇我馬子と物部守屋の両雄並び立
       っていた時代の天皇です。
       息長広姫皇后は、敏達天皇の最初の皇后ですが、一男ニ女をお
       生みになった後、薨じられ、その後に皇后になられたのが、豊
       御食炊屋姫、後の推古天皇です。
  住  所:大阪市天王寺区真法院町24−9
  電話番号:06−6771−5444
  ひとこと:日本書紀に、敏達天皇は、仏法を信じられなかった。と、あり
       ます。
       わざわざ、こう書かれているということは、この時代、仏教が
       いかに隆盛であったかということが分かりますね。

       しかし、高麗からの渡来人を重用し、百済から日羅を迎え、進
       言を聞く、非常に先進的な天皇であったのでしょう。

       日羅の進言は、「民を大事にすることで、民意が一つになる。
       そのようにして、国の力をつけてから、国外に目を向けなさい」
       という、極めて当たり前のようで、見落とされがちな内容だっ
       がようです。

       さて、興味深いのは、この天皇が亡くなったときのことです。
       蘇我馬子が崇仏家・物部守屋が廃仏派であったということは、有
       名で、守屋が仏を焼き払ったとか、いや、馬子がそうはさせなか
       ったとか言われていますが、そのせいか、国中に疱瘡が蔓延しま
       す。

       そして、敏達天皇も、瘡を病みますが、その苦しみ方が、焼かれ
       るようだったので、国の民は、「仏様を焼き払ったからだ」と噂
       をしたとそうです。つまり、日本中で仏教が崇拝されてきていた
       ことがわかりますね。

       そして、馬子と守屋は共に、天皇への誄(しのびごと)を述べる
       のですが、
       小柄な体に大きな太刀を帯びた馬子が、誄を述べているのを、
       守屋は、
      「猪矢(大きな矢)で射られた雀のようだ」
       とあざ笑い、
       全身・手足をわななかせて、誄を読んだ守屋を、
       馬子は、
      「鈴をつけたらおもしろい」
       と笑ったのだそうです。

       このときから、この両者はなんとはなしに、怨みを抱き合うよう
       になったのだそうです。

       両雄の、崇仏派の頭と・敬神派の長のいがみ合いがこんなことか
       ら始まったとは・・・。いやいや、人間ってのは、なかなかかわ
       いいところがあるもんですね。

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