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服部天神宮

hattoriten




  祭  神:少彦名命 菅原道眞
  説  明:栞を転記します。
      「御祭神『少彦名命』と『服部天神宮』の創建
       その昔、朝鮮から機織の技術を吾が国に伝えた人々に『秦氏』の姓氏を与えて、
       これらの子孫の多くがこの地に住まいしました。              
      『服部』の地名は秦氏の人々の住むところとして『機織部』から成りたったもの
       と思われますが、第十九代允恭天皇の御代(412年に、織部司に任ぜられ、
       諸国の織部を総領した『服部連』の本拠地がこの服部であります。(新撰姓氏
       録、第十八巻摂津国神別)
       外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である『少彦名命』を尊崇
       していましたので、当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたもの
       と思われ、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定され
       ています。

      『菅公』と『脚気平癒』の霊験
       右大臣、菅原道眞公は、ざん訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、
       延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、このあたりで持病の脚気に
       悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。(菅公の持病
       脚気は菅家後集に記載あり)
       そこで村人のすすめで、医薬の祖神『少彦名命』を祀る服部の路傍の小祠に詣
       で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、再
       び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。
       菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の
       小祠であった当社に菅公の霊を合祀し『服部天満宮』として堂宇を建立し、
      『菅公、脚気平癒の霊験』が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市を
       なす様になり、『脚気天神』『足の神様』として全国の崇敬をあつめる様にな
       りました。

      『能勢街道』と『服部天神宮』と『阪急電車』
       江戸時代、『大坂』から『池田』『能勢』『亀岡』に通ずる主要幹線道路とし
       て、『能勢街道』は人々の往来繁く、この街道に面して、その道程の中間に位
       置した『服部天神』は『全国からの崇敬者』と『能勢街道往来人の宿場』との、
       二つを兼ね備えて、境内外は非常な賑わいを呈し、旅籠、料亭、茶店が軒を列
       ねて、江戸中期から末期にかけて、その最盛期であったことは、神社に残され
       た数多くの絵馬や、建造物や、道標が、これを物語っていますし、現在の社殿
       も文政十年に新しく建てられたものです。殊に、全国各地から『足病平癒』
      『足の守護』を願って、永い期間、境内の旅籠に逗留して『願』を掛け、無事平
       癒を遂げた人々が、お受けして各地に祀った『服部天神の御分霊社』は、今も
       全国各地に点在していますが、江戸、本所の安部氏(この地の大名)武家屋敷
       内に祀られた分霊社に掲げてあった『摂州服部天神』の扁額は、勝海舟ゆかり
       のもので、戦後、俳人、萩原井泉水によって、当神社に奉納され、今は本殿に
       掲げられています。
       文化文政の頃、三代目中村歌右衛門の奉納した『みくじ箱』をはじめ芸能人か
       らの奉納品が、数多く残されており、『足』を大切にした『芸人、飛脚』など
       が、如何に当社を信仰したかを物語っていますが、明治四十三年に小林一三に
       よって開通した箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)は殷賑を極めた服部天神前
       まで、態々三国から電車を迂回して駅を設け、駅名を『服部天神駅』と名付け
       た程でした。今日も、野球、サッカー、陸上選手、その他のスポーツ選手をは
       じめ、『健脚』を祈る全国からの善男善女の参拝が絶えません。」
  住  所:大阪府豊中市服部元町1−2−17
  電話番号:06−6862−5022
  ひとこと:とっても気になるのは、
      「外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である『少彦名命』を尊崇
       していましたので」
       という一言。

       少彦名命が、「外来神」とはどういうことでしょうか。

       日本書紀では、
      「高皇産霊神が、『私が生んだ子は皆で千五百程ある。その名かの一人の子は、
       いたずらで教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だ
       ろう。可愛がって育ててくれ』といわれた。これが少彦名命である」
       とされていますし、

       古事記では、
      「大国主命が出雲の御大の御崎においでになった時に、並の上を蔓芋のさやを割
       って船にして蛾の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神様があります。
       その名を聞きましたけれども答えません。また御従者の神たちにお尋ねになっ
       たけれども皆知りませんでした。ところがひきがえるが言うには、『これは久
       延比古がきっと知っているでしょう』と申しましたから、その久延比古を呼ん
       でお尋ねになると、『これは神産巣日の神の御子で少名比古那の神です』と申
       しました。よって神産巣日の喚起に申し上げたところ、『ほんとにわたしの子
       だ。子供の中でも私の手の股からこぼれ落ちた子供です。あなた葦原色許男の
       命と兄弟となってこの国を作り固めなさい』と仰せられました。」
       とされています。

       日本書紀では、「高産霊神の」。
       古事記では、「神産巣日神の」。

       と違いがありますが、高産霊神も神産巣日神も、日本の国に最初に生まれた神。
       れっきとした、「往古からの神」のはず。

       その子供が「外来の神」というのは?????

       気になりますね〜(#^.^#)

       ただ、古事記にもありますように、この神様は、「船に乗って近づいてきた」
       とされる神様。

       そういう意味で、「海からやってきた」=「外来」と読めないこともありませ
       んね。

       また、「天神社」というと、つい、「菅原道真公をお祭した神社?」と考えが
       ちですが、実はそうとは限りません。

      「天神のお社」なわけですから、その御祭神は、火明神のこともありますし、三
       産霊神のこともあります。

       が、「少彦名命」をお祀りしている「天神社」は、かなり多いように見受けま
       す。

       関西では、「露天神社」「五条天神社」「御幸森天神宮」などがすべて、少彦
       名命を主祭神としてお祭されている「天神社」ですね。

       なぜでしょう?

       一つは、「指の股から零れ落ちた」というイメージかもしれません。

       天から零れ落ちたきた小さい神。
       ・・・これは、雷神をもイメージしますが・・・

       そういうことから、「天神社」ならば「少彦名命」・・・という発想になった
       のかもしれません。

       もしくは、「天神社」という社名に何かからくりがあるやもしれません。
      「天神社」があって、そこに少彦名命をお祭したのではなく。
      「少彦名命」をお祭した神社があって、そこを、特別に「天神社」と呼んだのか
       も・・・。

       もしそうだとしたら、「少彦名命」をお祀りする人々はどんな霊験を期待した
       のでしょうか。

       この神社のご由緒には、
      「秦氏は少彦名命を尊崇した」と書いてありますね。
       秦氏は、少彦名命にどんな霊験を期待したのでしょうか?

       少彦名命は、確かに、「医薬の祖神」としてのご霊験が有名です。
       次に、「温泉の神」としても有名かもしれません。

       医薬の神様が、「天の神」として尊敬されるのは、理解しやすいところではあ
       りますね。

       ただ、私は、この「少彦名命」の名を見るとき、どうしても思い出してしまう
      「人物」がいます。

       それは、雄略天皇の時代に活躍した力持ちのうっかり者・小子部スガルです。

       この人物、特にこれといって目覚しい活躍をしたわけではありません。

       日本書紀によると、まず、天皇が養蚕をしようと、スガルに、「蚕(こ)を集
       めなさい」と申し付けた話が出てきます。

       呑気で気の良いスガルは、
      「おやすい御用でございます。ご主人様。」
       と請け負ったわけですね。
       ・・・が、さすが天下の早合点。
      「蚕」を「子」と聞き間違えてたんです。
       まぁ、確かに、音は同じ「こ」ですからね・・・。
       しかし、この大男。
      「天皇様ってば、なんのために子を集めるのかしらん?」
       などと考えて見なかったのでしょうか。

       それを考えたら、おずおずとでも、
      「あの〜、まさか、食べようってんじゃあないですよねぇ?」
       とかなんとか質問を発しそうなもんです。

       が、スガルは、な〜んの疑問も持たず、小さな子供達を集め、天皇に献上。

       天皇は困ったでしょうねぇ(^^ゞ

       しかし、天皇は一切お怒りになりませんでした。
       大笑いをして、「子供達はおまえが育てなさい」と命じ、「小子部連」という
       姓まで賜ったのでした。

       よっぽど憎めない人物だったのでしょう。

       また、彼が力持ちであることを示す逸話もあります。
       ある日天皇がスガルに、
      「三輪山の神が見たいなぁ」
       とねだるわけですね。

       普通〜の神経の持ち主ならば、
      「そんな恐れ多いことを!!」
       とでも言ってしり込みしそうなところですが、この能天気な男は違います。
      「いっちょやってみますわ」
       と三輪山へ直行。
       大蛇を捕らえて献上します。

       スガルが(多分)素手で捕らえてきたこの大蛇を、天皇は見るなり、ぎゃっと
       叫んで、奥の部屋に逃げ込んでしまいました。

       ここで一つ言っておきますが、雄略天皇は決して臆病な人物ではありません。

       日本書紀では、「そのたくましさは人に抜きん出ていた」と書かれているほど、
       たくましく勇敢な人物です。

       その雄略天皇が恐れて見ることもできなかった三輪の神は、雷のような音をた
       て、目をギラギラさせていた、と日本書紀にはかかれています。

       ・・・そんな大蛇がいつまでも宮中にいては大変です。
       が、たくましいことで人に抜きん出た天皇でさえ見るのも恐れる大蛇。
       誰がそれを外に放つのでしょう?
       ・・・って、スガルに決まってますわね(笑)

       スガルは、
      「しょうがないなぁ〜」と、大蛇を掴み、また、野へ放ったのでした。
       その山は「雷丘」と呼ばれてます。

       ・・・三輪神の逸話については、雄略天皇がこの大蛇を恐れたのは、天皇が、
       斎戒をせずに大蛇=神と相対したからだ、という説明もついてます。
       とするとスガルは、ちゃんと斎戒したんでしょうか?
       それは書かれてないんですよね(^^ゞ

       つまり、スガルは、ある意味「天然斎戒男」なのかもしれません。
       自身が生まれつき、あまりにも純粋で汚れようがない男なのかも?

       さて。
       少彦名命は、いたずらっ子で、蔓芋の船・・・つまりうつろ船に乗ってやって
       きた神です。しかも「小さい子」です。

       スガルは、いたずらっ子で、うつろ船・・・蚕の繭に関わります。
       そして、「小さ子」に、深く関わります。

       そして、二人の後ろに何気なく光る、「雷」。

       ね?なんだか気になるでしょう?

       で・・・。ついでだから言ってしまえば、「うつろ船」「蚕」「祟り神(雷神)」
       というキーワードを、この神社の氏子であるとされる「秦氏」も持つのです。

       金春禅竹という人物が書いた「明宿集」という書物があります。
      「日本思想大系24」所載の「明宿集」から、引用してみましょう。

      「推古天皇ノ御宇ニ、泊瀬川ニ洪水出ヅ。水上ヨリ一壺ノ壺流レ下ル。人不審ヲ
       ナシテ、磯城島ノアタリニテ取リ上ゲ見レバ、中ニ只今生レタル子アリ。スナ
       ワチ抱キ取ルに、人に託シテ云、『我ハコン、大唐秦ノ初皇帝ノ再誕ナリ。日
       本ニ値遇アテ、今スデニ来レリ。急ぎ朝に奏スベシ』ト。」

       ご想像通り、この「壺に入って流れてきた子供」は、秦河勝です。
       つまり、「うつろ船」。

       そして、この子供は秦の始皇帝の再来と言うわけですが、なぜ、始皇帝が、日
       本へやってきたかは、こう説明されて・・・いると思います。

      「業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空船ニ乗り、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨の国
       南波尺師ノ浦に寄ル。蚕人船ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当初近離
       ニ憑キ祟リ給シカバ、大キニ荒ル、神ト申ス」

       ・・・いや、すいません。これ、読み間違えてる可能性は高いんですが、どう
       も、これ、始皇帝がうつろ船に乗って、日本の播磨は南波尺師浦に流れ着き、
       そこで、思いっきり祟った・・・と書かれてると思うんですが、どうでしょう?

                ***************
                     後  記
       どうでしょう?
       と言ってたら、「間違って」たみたいです(^^ゞ
       指摘を受けまして確認しましたら、確かに、南波尺師浦で祟ったのは、始皇帝
       じゃなく、その再来である秦河勝。
       しかし、「なぜ祟ったか」は書かれてませんでした。
                ***************

       てことで、ここで「祟り神」が出てきます。

       そして、この「祟り神」であるところの「秦河勝」は、ご存知の通り、蚕にご
       縁が深いです。
       まず、秦氏は織物をよくした氏族です。
       また、皇極紀には、大生部多という人物が、蚕によくにた「常世虫」を常世の
       神と偽り、暴利をむさぼったという話が出てきます。
       この大生部多を打ち懲らしめたのが、秦河勝。
       ここでも蚕と河勝の関係が伺えますね・・・。

       さて、話が長くなりましたが、閑話休題と行きましょう。

       この神社のご祭神である少彦名命・そして、氏子である秦氏。
       そして、ちょっと無理はあるけど、小子部スガル。

       この三者の共通項である、「うつろ船」「祟り神」「蚕(常世虫)」。

       三つとも、あるキーワードに繋がります。
       そのキーワードとは、「死」。

       うつろ船は、棺桶に結びつきます。
       祟り神は、「非業の死」ですね。
       そして、蚕=常世虫に至っては、言うまでもないでしょう。

       いや〜ん、なんか縁起でもないわぁ〜!!

       いや、大丈夫。
       スガルも少彦名命も、いたずらっ子ながら憎めない人物です。
       つまり、「キューピッド」を連想させるんですね。
       キューピッドとは、羽の生えた子供の神様。恋愛も司ります。
       ま、そこから天使に連想が行くのは自然ですね。

       天使がいるのは、そりゃぁ、天国でしょう。

       つまり、これらの人物から連想される果てに行き着くのは、「天国」。
       いや〜、めでたいですね〜(#^.^#)

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