祭 神:闘鶏稲置大山主命 大鷦鷯命 額田大中彦命 説 明:栞によりますと、 「元明天皇の御世、和銅三年七月二十二日、勅命により平城新 都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに 貯氷を起し冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、 世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも稱せられた。 翌和銅四年六月一日初めて献氷の勅祭を興され、毎年四月一日 より九月三十日迄平城京に氷を献上せられた。 奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後は、この 制度も廃止せられ、遂に百五十年を経て、清和天皇の御世、貞 観二年二月一日現在の地に奉遷せられ、左右ニ神を増して三座 とせられた。爾来、現在の春日大社の別宮に属し、式年の営繕 費、年中の祭礼などは、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と 社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われたが、明治維 新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によ って維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社 として、南部舞楽の楽祖なる狛光高公を祀った舞光社がある。」 とあります。 住 所:奈良市春日野町1−4 電話番号:0742−23−7297 ひとこと:闘鶏稲置大山主命(ツゲノイナキオオヤマヌシノミコト)につい て栞には、 「神八井耳命ノ裔で都介國造ノ後ナリ 是レ冷ノ應用ヲ教ヘ氷室ヲ創始シ貯氷ノ術ヲ發明シ給ヒシ大神ナ リ」 大鷦鷯命(おおささぎのみこと)については、 「諡名:仁徳天皇 是レ献氷ノ典例ヲ開カセ給ヒシ大神ナリ」 額田大中彦命については、 「仁徳天皇ノ皇弟 是レ貯氷ノ術ヲ奏上シ給ヒシ大神ナリ」 と説明されています。 仁徳天皇の御世、弟にあたる、額田大中彦命が闘鶏(現在の都 祁ではないかといわれています)に猟に行かれたとき、洞を見 つけ、闘鶏稲置大山主命(つげのいなきおおやまぬしのみこと) に「これは何か?」と尋ねると、「氷室です」と答えた、と、 日本書紀にはあります。 この神社は、平城遷都の時に、氷室を春日の三笠山麓の吉城川 上に作り、氷室明神を祀ったのが創始であり、 「春日野の 古き氷室の跡見るも 岩の景色は猶ぞ冷しき」 なんて和歌にも読まれてたりします。 闘鶏稲置大山主命は、「氷室の氷は夏にも溶けません。暑い時 には水酒に浮かべます」と言っています。 お酒に氷を浮かべて、平城の都を頭に思い描くのも良いかもし れません。 風流ですねぇ。 さて、酒飲みの私としては気になるのが、この「水酒」という 表現ですね。 この頃のお酒ってどんなだったんでしょうか。 記紀によりますと、大山祇命が、娘の出産の時に喜んでお酒を 醸したのが、「穀物でお酒を醸した始め」であるとなっていま す。 わざわざ「穀物で」とことわっているということは、それ以前 例えば、南の地方なんかでは椰子の実のお酒なんかはあったの でしょう。 弥生時代、農耕文化が日本全体に広がったので、日本酒と言え ば米のお酒となってしまったのかな。 それまでは、いろんなお酒があったんでしょうね。 さて、それじゃあ、仁徳天皇の時代のお酒はどんなものだった のでしょうか。 「播磨風土記」七十三年、仁徳天皇の時代、ほうきの加具漏(か ぐろ)、いなばの邑由胡(むろゆこ)の二人が、手を清酒で洗 ったという記述があるそうです。また、「正倉院文書」には、 「酒三三石三升二合、汁二八石六斗三升二合、かす五石」という 表現があるそうです。 つまり、仁徳天皇は、現代、私達が飲んでいるような、清酒を 飲んでたようです。(庶民はどぶろくだったようですけどね) 「水酒」は、清酒。ならどぶろくはなんと表現したでしょう。 「かす酒」とかね(^^ゞ