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鴨高田神社

kamotakada




  祭  神:速須佐之男命(素戔鳴命)
       大鴨積命(大賀茂都美命)
       神功九号(息長脚姫尊)
       應神天皇(品陀別命)
  説  明:境内案内を転記します。
      「当社は延喜式内社で、延喜式神名帳によれば、渋川郡六座の筆頭に市する官幣小
       社であった。
       当社の創建は往古鴨氏が居住してその祖神を祀ったに始まり社名はそれに由来す
       ると言われていて、遠く白鳳二年(673年)と伝えられる。
       中世に至り、岩清水文書保元三年(1158年)宣旨には岩清水八幡宮領として
       河内国高井田庄の名が見えてをり、後『河内誌』には当社について『在高井田村
       今若江郡也山州八幡神祭料因称八幡宮』と記し、当社が岩清水八幡宮領となり、
       八幡宮と称される由縁である。この付近一帯が戦場となった大阪夏の陣元和元年
      (1645年)兵火に罹り社殿ことごとく烏有に帰し後数年を経て再建されている。
      『河内名所図会』に、当社の隣、長栄寺の鎮守となり、今八幡と称するとある。
       祭神については『神名帳考証』は、大鴨積命なりと記し、『大阪府全誌』『大阪
       府史蹟名勝天然記念物』には素戔鳴命であるとしている。
       (写真が不明瞭なので中略(T_T))
       又社記によれば醍醐天皇の延喜十八年当地方大洪水により、五穀実らず諸民当社
       に気ゴンをこめて霊験あり、百姓大いに喜べりとある。又安永年間、悪疫流行す
       るや、時の神職久佐衛門一月九日より十日間断食して悪疫祓除の祈祷を執行し、
       然村その役を免れたとある。
       なほ、拝殿西側にある樹は、樹齢約一千年といわれるが、今は枯れ死して幹が少
       し残っている程度である。通称『お駒樟』。昔、お駒狐が棲みたりと、又お駒な
       る女性が、この木に呪詛の釘を打ち込み、願が叶へられたによりこの名ありと伝
       へられる。」
  住  所:大阪府東大阪市高井田1280番地
  電話番号:
  ひとこと:大鴨積(オオカモヅミ)命とは、どんな神様でしょうか?
       鴨角身(カモタケツノミ)命・・・八咫烏という神様がいらっしゃいます。

       同じ神様かどうかはわかりませんが、加茂健豆美命神社のご祭神、「加茂健豆美
      (カモタケズミ)」命が、下鴨神社のご祭神とされているので、とりあえず、ここ
       では、同じとして、話を進めます(~_~)

       ・・・がっ!!すいませんm(__)m
       後記に書きますように、間違いの指摘を頂いたので、よくよく調べてみると、こ
       れ、大間違いでした(^^ゞ
       ので、以下は、戯言としてお読みくださいませ。

       神社の案内によれば、この神社は、もとは、鴨氏の神社であり、後に岩清水八幡
       宮の領地になったとありますから、そこそこ、「数奇な運命を辿った神社」と、
       言えるかもしれません(^^ゞ

       さて、鴨氏の奉祭する神は、鴨武角身命だけではありません。

       むしろ、賀茂大神といえば、「味金且高彦根命」を指すのが一般的ではないでし
       ょうか?

       鴨武角身命は、記紀には、「神武天皇を先導した神」として登場します。
       味金且高彦根命は、記紀では、天稚彦の葬式で、死者と間違われて怒る神として
       登場します。

       つまり、記紀では、鴨武角身命の方が活躍しているといえます。

       ただ、記紀は、天武天皇・持統天皇が編纂した書物。
       当時の皇室寄りの内容となっています。
       ですから、賀茂氏の間で、どれだけ、味金且高彦根命が活躍しようとも、記紀に
       取り上げられなかった可能性は高く、日本にとって、功績が本当に大きかったの
       がどちらかは、記紀の記述だけでは判断できません。

       この神社は、賀茂氏の神社ですから、記紀の記載により祭神を決めたということ
       は、多分、ない可能性が高いですよね。

       でも、ご祭神は、味金且高彦根命ではなく、大鴨積命。

       つまり、この地に居住した賀茂氏にとっては、大鴨積命の存在は大きかったのか
       と思います。

       しかし、賀茂氏にとって、「神武天皇を先導した」という功績は、特にありがた
       いものではなかったのでは?

       とすると、大鴨積命にも、記紀に記載されない、何か大きな事蹟があったんじゃ
       ないか、と想像できます。

       どんな功績でしょうね?
       それは想像するしかありませんが、ヒントは、このご祭神が、下鴨神社でも祀ら
       れていることかもしれません。

       山城国風土記逸文には、賀茂建角身命の娘が、天神の子供を宿した逸話が登場し
       ます。

       その子供は、賀茂別雷命。
       母親、玉依姫は、父親のわからない子供を出産するのですが、その子供の成人式
       で、祖父にあたる賀茂建角身命が、「おまえの父親を指差してごらん?」と言う
       と、子供は天を指し、天へ昇ってしまうのです。

       天におられた、その父神は、「大山咋の神」ということになってます。

       大山咋の神様は、高天原におられた神様ではないと思うのですが、「天神」と表
       現されてますね。

       思うに、大山咋の神は、賀茂別雷命・・・当時の賀茂氏にとって、別部族の首長 
       だったんじゃないでしょうか?

       つまり、賀茂建角身命の時代、賀茂一族は、大山咋一族と協力関係を結んだとい
       う意味ではないかと。

       だとしたら、この功績は、大きかったかもしれませんね。

       ・・・、死者と間違われて、怒って飛び去った味金且高彦根命と、賀茂別雷命と
       が、なんだか同一人物に思えるとおっしゃる方もおられるでしょう。
       私も、そう思います。

       でも、それをこじつけるだけの材料がないので(^^ゞ
       またの機会に(~_~)


                ***後 記***

       ご祭神の「大鴨積命」について、八咫烏と同一視するのは、おかしいとご指摘を
       頂いたので、神社新報社「日本神名辞典」を見ますと、似たような神名で、

      「意富加牟豆美命(おおかもずみのみこと)」
      「大賀茂都美命(おおかもつみのみこと)」

       があげられておりました(^^ゞ

      「意富加牟豆美命」は、どんな神様でしょうか。

       この神様は、古事記に登場します。
       伊耶那岐命が黄泉の国で、伊耶那美命の手下(?)「黄泉醜女」に追いかけられ、
       黄泉比良坂まできた時、桃の実を三つとって、投げつけるのです。

       すると、黄泉醜女は逃げてしまいました。
       
       そこで、伊耶那岐命は、桃を褒め称え、「意富加牟豆美命」という名前を賜いま
       した。
       角川ソフィア文庫「新訂 古事記」によりますと、伊耶那岐命のセリフはこうあ
       ります。

      「汝、吾を助けしがごと、葦原の中つ国にあらゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ち
       て、患惚まむ時に助けてよ」

       つまり、我々人間(青人草)を守護してくださる神様と言っていいかもしれない
       ですね。

      「大賀茂都美命」については、私はその資料を持っていないのですが、
      「日本神名辞典」には、

      「大田田禰古命の孫。神主として賀茂神社を斎き奉った(姓氏録)」
       とあります。

       大田田禰古命とは、大神神社の初代宮司であるとされる人物で、大物主命の子孫
       である、とされています。

       この、「大賀茂都美命」については、もう一度確認してみねばならないですね。

       それにまた、この二方の神様のどちらかと、ご祭神「大鴨積命」が同一とは限ら
       ないわけでございます!!

       失礼しました〜〜〜m(__)m

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