祭 神:素盞鳴尊 春日大神 櫛稲田姫命 説 明:境内看板によりますと、 「神波多神社(牛頭天王)は、『延喜式』神名帳(西暦927年) にその名が見られる古社で、『延喜式』臨時祭に畿内堺10ケ 所に祀った疫神のうち、『大和与伊賀堺』に祀られた疫神であ ると考えられている。 また、本殿西方から出土した平安期の古鏡や、正和元年(西暦 1312年)の銘を刻む石燈篭(村指定文化財)があるなどか ら、かなり古くから信仰を集めていたようである。 天正九年(西暦1581年)織田信長の伊賀攻めの際に兵火に 遭ったと伝えられ、縁起等の資料を欠き沿革の詳細は明らかで ない。 当社の祭神は、素盞鳴尊のほか春日大神・櫛稲田姫命を祀る。 古来から『波多の天王』と呼ばれ、大和・伊賀・山城など広く にわたり崇敬者が多い。 江戸時代前期(17世紀中頃)の建立と推定される本殿は、奈 良県指定文化財(建造物)である。建立以来一度も根本的な解 体修理がなかったことから、各部が緩み放置できない状態にな っていたので、保存のため平成六年から同七年(西暦1995 年)にかけ、初めての解体修理が行われ、創建当時の姿に戻っ た。 主なお祭は、祈年祭(二月二十五日)、祇園祭(旧六月十三日) 例祭(十月十五日)、新嘗祭(十一月二十五日)である。」 とあります。 住 所:奈良県山辺郡山添村中峯山310 電話番号: ひとこと:畿内堺10ヶ所に疫神を祀った・・・とありますが、それは、 いつのことなのでしょうか? 「続日本紀」を見てみますと、称徳天皇の、神護景雲四年六月二 十三日、「疫病を防ぐ神を京の四隅と、畿内と畿外の堺十箇所 で祭った。」と記載されています。 これは、称徳天皇が崩御した年の始めに行われたことですが、 この前後を見ていますと、称徳天皇は、大赦やら、恩赦やらを 行っています。何か予感があったのかも知れません。 記述を見ていますと、この年6〜7月に、彗星が北斗七星に入 ったとありますから、これを悪い兆しと見たのかも知れません。 称徳天皇といえば、弓削道鏡事件ですね。 道鏡は、学識が高く、称徳天皇のお気に入りとなるんですが、 続日本紀によれば、寵愛を笠に、皇位を狙った、稀代の悪僧で す。 道鏡出現まで、同じく天皇の寵愛を一身に集めていたのは、藤 原氏(仲麻呂)ですからね。 次の代の光仁天皇の時に、井上内親王を巫蠱の罪で幽閉したの は、山部親王を推す、藤原式家や、藤原百川の策略であったと 言われています。 そんなことを考えると、道鏡が怪僧であった、という方が、怪 説なんじゃないか、と思えてきます。 山部親王とは、後の桓武天皇なんですが、彼は、様々の怨霊に 悩まされます。 井上内親王とその息子で皇太子であった他戸皇子。 そして、弟にあたる、早良親王。 早良親王は、人望が篤かったらしく、桓武天皇としては、自分 の地位を脅かす存在であったのでしょうね。 また、桓武天皇の皇子・安殿親王を立太子したかったというこ ともあったのでしょう。 しかし、なぜか(?)弓削道鏡は怨霊にはなっていません。 道鏡は、天皇即位目の前にして、下野国薬師寺の別当に降格さ せられたわけですから、怨霊になる資格は十分に備えているの に・・・です。 ただ、桓武天皇に、新しい都として、淀川上流の葛野の地を薦 めたのは、道鏡の天皇即位を阻んだ、立役者・和気清麻呂です。 桓武天皇には障りがなかったけれども、清麻呂には、何か、祟 りめいたことがあったのかもしれませんね。 しかし・・・。 陰謀の首謀者は、ここで見る限り、藤原氏なんですよ。 どれもこれも。 その藤原氏が、この後も栄えたことを考えると・・・。 怨霊って・・・哀しいものですねぇ。 ************************** なんて書いてたら、旦那からチェックが。 「悪者は怨霊になれへん。 陥れたという意識があるから、怨霊になると思うんや」 っちゅう内容のメールが携帯に入りました。 ふむふむ。なるほど道理です。 ・・・が、そうだとすると、道鏡は、本当に悪僧ってことに なっちゃうじゃないの。 却下!却下!!! 私は道鏡に肩入れしてるんだからっ!