祭 神:饒速日命 天児屋根命 素盞鳴命 品陀別命 市杵島姫命 説 明:栞によりますと、 「ご由緒 当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神 社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を 集めてきた神社です。 日本書紀には、『雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部大連 に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思 われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神 を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛 國神社と称するようになった。 三代実録には、清和天皇『貞観九年二月二十六日河内国志紀 郡辛國神社を官社に預る』とあります。 元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。 室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を 寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請して その祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。 明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至 っている。 御神徳 饒速日命 瓊々杵尊の御兄。 物部氏の祖神。 天孫降臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、 大和建国の任務をうけて河内国哮ヶ峰に天降りになった。 瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三四五六七八 九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死 人も行き反えらん』と教え諭された。 故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信 仰されている。 天児屋根命 藤原氏の祖神。 天照大御神が天岩屋戸に隠れ給うた時、岩戸の前で美声をあ げて祝詞を奏上した神で、後天孫降臨に随って日向国に降っ た五部神の一人。 その子孫は代々朝廷の祭祀を司った。 国土安泰、産業(農工商)繁栄、家内安全、災難除け、出世 開運、合格祈願をする者も多い。 素盞鳴命 天照大神の弟神。 素盞鳴命は気性の激しい直情径行の御性格のため、御姉君・ 天照大神の勘気をこうむり、高天原から地上に追放された。 そこで命は己の犯した罪を深く反省し、困難に耐えて出雲の 国にたどり着き、勇猛心を善用して『八岐の大蛇を退治した』 という神話は、実にわが日本民族の理想を示している。 素盞鳴命が自ら句なんの道を歩み幸福の地を開拓されたとい う御神徳を仰ぎ、古来より縁結び、厄除け、開運の守護神と しての信仰が篤い。 品陀別命 応神天皇 第十五代の天皇。 治山治水につとめられ、又学問に極めて御熱心であった。こ の御代に百済、新羅、中国のいわゆる辛国から文字をはじめ、 各種の大陸文化がわが国に伝来した。 母君は神功皇后である。 古来より学問の神、安産の神としての信仰が篤い。 市杵島姫命 素盞鳴命の子。 美人のほまれ高く、弁天様に見たてられている。 天孫降臨に際し、『よく養育せよ』との御神勅を奉じて天孫 瓊々杵尊を立派に成育せしめられた。その御神徳により子供 の守護神と仰がれている。」 とあります。 住 所:大阪府藤井寺市藤井寺1丁目19−14 電話番号:0729−55−2473 ひとこと:まず、辛國氏って?ってところから始めてみましょう。 辛國氏ってのは、特定の氏族の名称なのでしょうか? NTT発行の「ハローページ」で見てみますが、藤井寺市に 「辛国」「唐国」「韓国」「漢国」およそ、「からくに」と読 みそうな苗字は見当たりません。 栞にある応神天皇の時代、「辛国」から渡来した人々の総称 を、「辛国氏」とした、可能性はありそうです。 さて、本来ならこの神社の主祭神は饒速日命ですから、この 神様について弁じるべきなんでしょうが、「ひふみや・・・ とふるべ」も、何度か書いちゃいましたし、ここは、市杵島 姫について考えてみたいと思います。 だって、市杵島姫が、瓊々杵尊を生育したなんて話始めて聞 くんですもん・・・。 記紀にそんなクダリありましたっけ? ん〜〜、ペラペラペラ。。。ないですね。 饒速日命を祀った神社だから、旧事本紀かな? 巻第六「皇孫 本紀」には、そういった表現はないようです。 ただ、日本書紀では、高皇産霊尊は、瓊々杵尊を「真床追衾」 で包んで、高千穂の峰に降ろした。とあります。 古事記では、そういう表現はありません。 旧事本紀では、日本書紀と同じく、高皇産霊尊が、瓊々杵尊 を「真床追衾」で覆って降ろしたとあります。 「真床追衾」は、床に敷く物というような意味だと説明されて いますが、それで「包まれていた」わけですから、これは、 赤ん坊の「ねんねこ」みたいなものだった可能性はあります。 しかも、天下りは、そもそも、瓊々杵尊の父親天忍穂耳命が 命ぜられたもので、たまたま「準備中」に、瓊々杵尊が生ま れたので、瓊々杵尊にお鉢が廻ってきたのです。 その頃、瓊々杵尊はまだ子供だった、というのは、十分ある 話です。 つぅことは、彼が地上に降ろされてから、猿田彦神に会った り、木花開耶姫に会ったりするまでには、誰かが瓊々杵尊を 養育する必要があったはずです。 それについて、記紀・紀共に全く触れられていないのは、却 って不自然ですね。 さて、もし、この辛国神社の説明の通り、養育役、つまり、 乳母を務めたのが、市杵島姫だったらば、どうでしょうか? まず、市杵島姫が、なぜ乳母に選ばれたのでしょうか? 瓊々杵尊は、高天原の期待を一身に背負っていたわけですか ら、その乳母には、才気ある女性を選ぶでしょう。 とすると、市杵島姫は、当時一級の教養を供えていた女性で あるハズです。 また、もし、市杵島姫が天照大神と素盞鳴尊の間に生まれた 子供であるとすれば(記紀では、天照大神が忍穂耳命を初め 五男神を、素盞鳴尊が市杵島姫を含む三女神を生んだことに なってはいますが・・・)、瓊々杵尊にとって、市杵島姫は 叔母(伯母)に当ります。 市杵島姫が、他の姉妹女神より抜きん出て人気があることを 考えると、彼女が、飛びぬけて美しかったか、飛びぬけて賢 かった可能性はありますから、彼女が瓊々杵尊の乳母をする ことに、不思議はないと思います。 なのに、何故、この事項が、記紀から抜け落ちてしまったの でしょうか? 真っ当な神社ファンなら、「素盞鳴尊が単独で生んだとされ る市杵島姫が、瓊々杵尊の養育役になるというのは、天照大 神より、素盞鳴尊が優位に立つことになるので、よくないか ら」と即座に答えるかも知れません。 が、それじゃ詰まらないので、違うことを考えてみましょう。 瓊々杵尊の孫にあたり、神武天皇の父親である、鵜茅葺不合 命も乳母に育てられた一人です。 そして、その乳母は、叔母である玉依姫です。 んでもって、この乳母であり叔母である玉依姫を鵜茅葺不合 命は後に娶っています。 同じことが、瓊々杵尊に起きていたとしたら? 瓊々杵尊の妻は、美人の誉れたかい木花開耶姫です。 伝承では、岩長姫という姉と、もう一人、木花知流姫という 姉だか妹だかがいます。三姉妹ですね。(木花知流姫は、古 事記中、素盞鳴尊と大国主命を結ぶ系譜にちょろっと出てこ られるだけで、木花開耶姫命の別名という説もあります。) 木花開耶姫が妊娠した時、瓊々杵尊は、その子供が本当に自 分の子供なのかどうかを疑います。 古事記では、 「国つ神の子供ではないのか?」と疑っています。 木花開耶姫の父親は大山祇神。天照大神とは兄妹にあたる関 係です。 なんで、自分と同じ天神の系譜の妻に対し、 「国つ神と浮気してる」という疑いを持つのでしょうか? 国つ神と天神が、互いに違う豪族同士だと考えれば、同じ氏 族の中でも、妻の方が、別の豪族との関係が深かったという ことでしょうね。 つまり、語学が堪能だ、とか。 瓊々杵尊は、妻に、別の氏族との交渉という点において、劣 等感を持っていたんじゃないか・・・なんて想像をしてしま います。 だからと言って、市杵島姫=木花開耶姫であるという結論に はならず、単なる推論なのですが。 ここでは、その推論をも少し押し強引に進めていきましょう。 そうしますと、ここで、また強引な推理がでてきます。 つまり、瓊々杵尊=鵜茅葺不合命・・・っていうか、ここら へんの神話は時代が前後しててもおかしくないので、一つの 神格を、山幸彦の父たる瓊々杵尊と、神武天皇の父たる鵜茅 葺不合に分けて神話にした、ということになりますか。 また別の強引な推理がでてきます。 即ち、叔母と甥の結婚は、古代では普通に行われていた。 これはですね。古代までいかずとも、結構あるでしょうね。 記紀編纂の時期でも行われていたようですからね。 例えば、持統天皇は、(記紀が正しいならば)叔父にあたる 天武天皇に嫁いでいます。 そして、叔母と甥の結婚ということになると・・・。 大津皇子がいます。 大津皇子は、天智天皇の娘・大田皇女と天武天皇の子供です。 そしてその妻は、天智天皇と常陸娘の娘・山辺皇女ですから。 甥と叔母の結婚に、持統天皇が(陰謀によりかどうかはわか らないけれど)廃した、人望厚き皇太子候補・大津皇子を彷 彿とさせたから、これを避けた・・・と考えるのは、穿ち過 ぎるでしょうか? ちなみに、都久夫須麻神社では、「市杵島姫命は、大国主の 妻」という説明を受けました。 そうだとすると、瓊々杵尊の乳母やってる暇も、瓊々杵尊の 妻やってる暇(?)もないですけどね(^^ゞ