祭 神:彦國葺命 素盞嗚命 説 明:本来の祭神は、「大日本神祗志」には、 「王氏系三氏(百済の辰孫王が王氏一族として土着した氏族が、 欽明朝から敏達朝時代にさん氏に分立した、『葛井(ふじい) 氏』『船氏』『津氏』のこと)の祖神か」 と記載されています。 また、「地理志料」には、 「野中氏の祖廟か」 と記載されているのだそうです。 住 所:大阪府藤井寺市野中2−5 電話番号: ひとこと:彦國葺命(ひこくにふきのみこと)は丸邇(わに)氏の祖。 古事記では、日子国夫久と記されています。 彼が活躍するのは、崇神天皇の御代です。 お話は、日本書紀も古事記もほぼ同じですので、ここでは 古事記を参照しましょう。 「崇神天皇の御代、比古の命を越の道に遣わしたが、大比古 が越に向かう途中、裳を穿いた乙女が、山城の幣羅(へら) 坂に立って、歌った。 『御真木入彦(崇神天皇のこと)はや、 御真木入彦はや、 おのが命を 盗み殺せむと、 後(しり)つ戸よ い行き違い 前つ戸よ い行き違い 窺はく 知らにと、 御真木入彦はや。』 と。 大比古命が、乙女に『どういう意味ですか?』と尋ねると、 『私はただ歌っていただけのことです』との答え。 そこで、大比古命は、帰って、天皇に伝え、 『これは、山城の国に遣わせられた、建波邇安の王が悪い心を 起こした験でしょう』 と仰せられました。 そして、日子国夫久共に山城へ向かわれました。 日子国夫久は、その時に、丸邇坂に、清浄な瓶を据えて、お 祭りしていったといわれます。 さて、山城の和訶羅河に着くと、そこには、建波邇安が既に 軍を興して待機していました。 二軍は、河を挟んで対峙し、挑み合います。 まず、日子国夫久命が、『そちらから清め矢を放て』と言い 放ちます。 言われた通り、建波邇安が放った矢は、当たりませんでした。 そこで次に、日子国夫久命が矢を放つと、見事、建波邇安に 当たり、反乱軍は、平定されます。」 なるほど。大比古命より、日子国夫久命の方が活躍している んだぁ・・・。 日子国夫久は、孝安天皇の甥にあたるか?といわれる、押彦 命 と、彦国姥津命の皇子なので、天皇家の血筋ではありま す。 建波邇安討伐の物語に、大比古の存在は必要あるのでしょう か? 何かの理由があって、無理からに登場させられているのかも 知れません。 乙女の歌を解くことができるほど、聡明な人物であった、と いうことかも、知れませんしね。 さて、丸邇氏の、もともとの本拠地は、奈良盆地の東縁の和 爾の地(現在の天理市和爾)で、その後、本拠地を少し北の 春日のあたりに置き春日氏と称したとのこと。 日子国夫久命の子孫は、繁栄したのですね。