祭 神:丹生都比売大神 説 明:栞から、神社略記を転載します。 「四面山に囲まれた幽僻の地、海抜500Mの盆地天野に約1700年前より お祀りされている丹生都比売神社は、通称天野社・天野大社の名で呼ばれて います。 弘法大師が高野山開創と共に、特に関係深い当社は、地主神、また高野一山 の鎮守神として現在に至っています。 天平年間の頃に出来たという『丹生大明神告門』によると、丹生都比売大神 は、天照皇大神の妹神で稚日女命(わかひるめのみこと)とも申し上げ、神 代この紀伊国奄田(三谷)に御降臨され、御子高野御子大神と共に紀伊・大 和地方を巡歴、終焉の聖地として天野原に上り『朝日なす輝く宮、夕日なす 光る宮に、常世の実やとして鎮り給う』と記されています。 神功皇后への協力の功として、応神天皇より紀ノ川より南、有田川に至る広 大な土地を神領として与えられました。 弘法大師が、高野山に真言密教の道場を開くにつき高野御子大神が狩人に化 身し、黒白二頭の犬にて案内した事等により高野山により丹生明神・高野明 神として二社が祀られました。 鎌倉時代には、行勝上人により二位尼の援助のもと気比明神・厳島明神が勧 請され四社となり現在の形が出来ました。 その後、徳治元年(1306)に、大整地が行われ、社殿も現在の姿に造営 され、神社としての威容が整いました。 しかし、明応五年(1496)大火の災害に見舞われ、全社殿及び付近の寺 院堂塔伽藍が焼失したが、社殿内の御神体が安置されている内宮殿は搬出さ れ難を逃れ、明応八年(1499)四月楼門が現在の二階に改造、四社殿は 十余年の歳月を要して造営が完了しました。 江戸時代に第一殿、明治時代に第三殿が、台風のため裏山の倒木により損壊 したが修復され現在に至っています。 四社殿とも一件社春日造りで日本では最大といわれています。 また、社殿内部には内宮殿があり、その中に御神体を安置する形式も他に例 のない神社として有名です。」 住 所:和歌山市伊都郡かつらぎ町上天野230番地 電話番号:0736−26−0102 ひとこと:大きな太鼓橋の向こうに社殿が見えます この橋が架かっているのは、「鏡池」。 人魚の肉を食べ、不老不死になった、八百比丘尼が、この池の畔で鏡に顔を 映し、 「あぁ、私はなぜ老けないのだろう」 と嘆き、鏡を池に投げ捨てたなんていう伝承が残っています。 なんで水辺で、わざわざ鏡を取り出す必要があるのでしょう。 「水鏡」という言葉があるように、水のそばに立っていたなら、水に姿を映し て見る方が自然でしょうに。 「水鏡」だったのではないかと、想像してみます。 「鏡を投げ捨てた」という伝承は、何かの暗喩。 つまり、八百比丘尼が、水の中に身を投げたのではないか、と。 この池の中には、小さな島があり、そこに可愛らしい祠があります。 それが、八百比丘尼の「墓」ではないか、などと。 そう考えると、この池の静かさが、何か秘められた思いを孕んでいるように 思えてくるから不思議です。 単なる想像なんですけれどね。 さて、 日野西眞定先生の、「かつらぎ町宮本丹生・狩場神社の縁起について」と題 された論文には、かつらぎ町泰富氏所蔵で、編集修禅院懐英の自筆本なる、 「皮張明神縁起 併 祭礼由来記」が紹介されています。 その中から一部、引用させていただきます。 「敬テ皮張王子の始終を考えるに、本地は老文殊寂光の都を出御し、当社の明 神ト顕れ、天野宮の末社十二王子の上首ニ居し給へり。 所謂、皮張・皮付・土公・大将軍・八王子、左方、 八幡・住吉・熊野・金峯山・信田・白山・恵比須、右方、 等の神是也。 彼本宮の神躰たるや、天照太神の御妹月夜見尊なり。神武天皇の初つかた、 紀和の國境丹生の川上に天降り給ひて神勅ありき(後略)」 これは、皮張明神(狩場明神)について説明されたものですが、天野宮の説 明として、「神躰たるや、天照太神の御妹月夜見尊なり」と記されているの がわかります。 そして、丹生都比売神社の由緒略記には、 「『丹生大明神告門』によると、丹生都比売大神は、天照皇大神の妹神で稚日 女命(わかひるめのみこと)とも申し上げ」 と記されています。 つまり、丹生都比売神社のご祭神は、天照大神の妹神という点で、二つの縁 起の記述は一致しています。 ただし、その名が、一方は、稚日女命こと丹生都比売大神。 もう一方は、月の神であるところの、月夜見尊である、としているのです。 この違いが、私は気になっています。 丹生都比売神=月夜見尊 であるという考え方があったのだろうか、と。 なぜなら、丹生都比売神の神格の一つとして、「穀物の神」というものがあ る、と、聞いたからです。 そして、「丹生酒殿神社の丹生津姫のご神体は稲穂らしい」と。 つくよみのみこと・つきよみのみこと。 どう読むのが正解か、私は不勉強ながらよくわかっていないのですが、 この神の漢字表記は、日本書紀の中でもバラバラです。 本書では、「月弓尊」。 伊奘諾尊・伊奘冉尊が協力して生んだとされています。 一書(第六)では、「月読尊」。 黄泉から帰った伊奘諾尊が禊をした時生れたとされています。 そして、一書(第十一)では、「月夜見尊」。 どうしてお生まれになったかはかかれていませんが、続く物語に興味深いも のがあるのです。 一書(第十一)を、引用しましょう。 「伊奘諾尊が三柱の御子に命じておっしゃるのに、『天照大神は、高天原を治 めよ。月夜見尊は、日と並んで天のことを治めよ。素戔鳴尊は、青海原を治 めよ』と。天照大神はもう天上においでになっておっしゃるのに、『葦原中 国に保食神がおられるそうだ。月夜見尊、お前行って見てきなさい』と。月 夜見尊は、命を受けてお降りになった。そして保食神のもとにおいでになっ た。保食神が首を回し、陸に向われると、口から米の飯が出てきた。また海 に向われると、口から大小の魚が出てきた。また山に向われると、口から毛 皮の動物たちが出てきた。そのいろいろな物を全部揃えて、沢山の机にのせ ておもてなしした。このとき月夜見尊は、憤然として色をなしていわれ、 『けがらわしいことだ。いやしいことだ。口から吐き出したものを、わざわざ 私に食べさせようとするのか』と。そして剣を抜いて、保食神を撃ち殺され た。そして後に復命して詳しく申し上げられた。そのとき天照大神は、非常 にお怒りになっていわれるのに、『お前は悪い神だ。もうお前に会いたくな い』とおっしゃって、月夜見尊と、昼と夜とに分かれて、交代に住まわれた。 この後天照大神は、天熊人を遣わして、行って見させられた。保食神は本当 に死んでいた。ところがその神の頭に牛馬が生まれ、額の上に粟が生まれ、 眉の上に蚕が生まれ、腹の中に稲が生じ、陰部に麦と大豆・小豆が生じてい た。天熊人は、それをすべてとって持ち帰り奉った。すると天照大神は喜ん でいわれるのに、『この物は人民が生きていくのに必要な食物だ』と。そこ で粟・稗・麦・マメを畑の種とし、稲を水田の種とした。」 天熊人とは、「神の供える米を作る人」と説明されています。 この話しは、太陽と月が別々に出ることの説明ともなっていますが、もう一 つ、穀物の起源譚ともなっていますね。 しかし、変な話です。 天照大神の態度は、全く解せません。 なんの説明もなく、月夜見尊を保食神のもとへやらせ、そして、月読尊が保 食神を殺したと聞き、激怒。 そして、保食神が本当に死んだかどうか、「米を作る人」に見に行かせてい るんです。 そして、穀物の種が手に入って大喜びしても、月夜見尊を許すことはしなか ったのです。 保食神は死ぬことにより、人民のために必要な食物を生み出しました。 というより、保食神は、「死」という「儀式」を経て、「穀物そのもの」の 姿に変身したのかもしれません。 メタモルフォーゼは、多くの場合、誰か他の人の力を借りなくては成し得な いものです。 例えば、グリム童話の「蛙の王子」では、蛙は、ワガママな王女様に殺され ることによって(壁に投げつけられる・首をちょん切るなど、方法はいくつ かあるようですが)、王子に戻ることが出来ました。 また、お伽草子にある「天稚彦物語」においては、娘に頭をちょんぎらせる ことにより、蛇は天稚彦の姿に戻りました。 他にも、いくらでも例は出てきます。 ボーモン夫人の「美女と野獣」では、野獣は美女のいたずらにより命を落と し、美女の涙により、王子の姿に戻るのです。 「誰かに殺される」 ということが、とても大事なことなのでしょう。 そして、童話においては、 「殺される側」と「殺す側」は、その後、夫婦になることが多い。 というより、夫婦にならない例を、私は思い出せません。 さて、保食神は、月夜見尊と夫婦にはならなかったのでしょうか。 皮張明神縁起によると、月夜見尊は「天照太神の妹」つまり、女性です。 保食神が男性ならば、夫婦となったかもしれません。 ただ、「夫婦」というのは、「一体である」ということと同意なのかもしれ ません。 つまり、月夜見尊は保食神であり、保食神は月夜見尊である。 この二柱の神が一体となったものを、「丹生都比売」と呼んだ・・・。 これは、この縁起だけを鑑みた推理で、他の伝承や、研究を見ると、もっと 他の可能性も十分考えられるのですが、少なくとも、 「月夜見尊と保食神の逸話に何か関係がある可能性」くらいは考えてもいいか などと思うわけです。 丹生都比売尊は、魅力的な女神です。 だから、いろいろな研究がなされています。 私が最初にこの神社に参拝したのは、神社に興味を持ち出して間もない頃で した。 旦那の車で高野山近辺を移動していたとき、たまたま参拝したのですが、こ の神社に参拝した後の帰り道、ほとんど信号に引っかからずに帰れたことを 覚えています。 盆地に鎮座するお社だからでしょうか。 そこだけ清々しいスポットライトがあたったかのような、まぶしく、静かな お社です。