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白鬚神社

shirahige




  祭  神:猿田彦命
  説  明:古代の鎮祭創建に始まると言われ、社記によると垂仁天皇二十五
       年(西暦304年)皇女倭姫命社殿を御再建、天武天皇白鳳二年
      (西暦674年)勅旨を以て比良明神の号を賜ったのだそうです。
       現在の社殿は、慶長八年(西暦1603年)。淀君・豊臣秀頼の
       建立なのだそうです。

       栞によりますと、
      「古事記によると、猿田彦神は『天の八衢(やちまた)に居て、上
       は高天原を光(てら)し、下は葦原中ツ国を光す神』だと見えて
       いる。

       高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道が
       あり、猿田彦神はそこに居られて、道を守り、道を教えた神様で
       ある。

       このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を教え
       導かれた功績を賞め称えたものである。
       これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守
       り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神であったことを
       示したものと言えよう。

       古事記には更に、この神の出自をいって『吾は国つ神』とあり、
       この国土にあって国民の為の導きの神であったことを知らしめる。
       その導きの神徳は『御前(みさき)に仕へ奉らむとて参向に侍ら
       ふ』ともある。

       天孫を始め、延いては多くの人々の前に立ち、人の世のすべての
       業や営みを善い方に誘導されたことは、私共はこの神を信じ奉ず
       ることによって、常にこの神が自分の前に立って善き方に導いて
       下さることを知らしめるものである。

       日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿
       の持ち主であった。
      『その鼻の長さ七咫(ななあた)背(そびら)の長さ七尺余、また
       口尻明(あか)りて耀(て)れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝
      (てりかがや)けること、赤酸醤(あかかがち)に似たり』とある。

       らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿をほうふつさせる大神である。
       そしてその威力はこの神に『目勝(まが)つ神』はなかったとあ
       るように、その眼力を窺えるのである。

       この神が岐れ道におられて睨をきかせているのだから、悪いもの
       は近寄ることさえ出来ない。
       そして自分が望む方向・・・正しい方向に行こうと思うものに対
       しては『吾れ先に立ちて道開き行かん』と仰せられ、人々の先頭
       に立って行く手を開き導いて下さるのである。」
       とあります。
  住  所:滋賀県高島郡高島町大字鵜川215
  電話番号:0740−36−1555
  ひとこと:この神社の別社名は、「白鬚明神・比良明神」であるとされてい
       ます。

       比良明神に関しては、石山寺縁起絵巻に、比良山の地主神として
       出てきます。

      「聖武天皇が東大寺大仏建立のため黄金を捜し求めたところ、僧・
       良弁に夢のお告げがあった『近江湖南の勢多県にある如意輪観世
       音の霊地である山で念ずれば黄金が手に入る』と。
       良弁が急いで勢多県に行くと、一人の老翁が大岩の上に座って、
       大川(瀬田川)に釣り糸を垂れている。尋ねると、『私は、この
       背に続く山々の地主神比良明神である。そして、ここは観世音の
       霊地である』と言って掻き消えた。良弁は、早速岩の上に庵を結
       び祈念したところ、黄金が出たという知らせが入った。この庵が
       岩山寺の起こりである」というものです。

       太公望のお話もそうですが、なぜ、何かを教える老人は釣りをし
       てるんでしょう。何もせずに待っているのが手持ち無沙汰なんで
       しょうか??

       とにかく、この神社の祭神が猿田彦命になったのは、三尾大明神
       本土記の、「猿田彦命は、垂仁天皇の御代に三尾郷に帰って来て、
       洞穴の中に入ってついに神となった」という表記と関係があるの
       だそうです。

       確かに、猿田彦命と白鬚って、なんか結び付きませんもんねぇ。

       神社の説明では、猿田彦命が「目勝神」となっていますが、古事
       記を見ますと、それに勝っるのが天宇受売(あめのうずめ)命で、
      「面勝神」と表現されています。
       そこで、宇受売命が、猿田彦命に尋ねるんですね。
      「何をしてるんですか?」って。

       この時、日本書紀と先代旧事本紀によれば、猿田彦命は、「案内
       しようと待っていました。天孫は、筑紫の日向の高千穂のくし触
       峯においでになるでしょう。私は、伊勢の狭長田の五十鈴川に帰
       るでしょう」とおっしゃったとあります。
       五十鈴川・・・ですよねぇ。

       さて、ここからが、あまり知られていないところです。
       天孫を高千穂へ送ったあと、宇受売命は、猿田彦命に従って夫婦
       になるのですが、この二人が五十鈴川へ行く途中のことです。
       これは、日本書紀には描かれていないのですが、
      「猿田彦命が阿耶訶(あざか・現在の三重県松坂市)においでにな
       った時に、漁をして、比良夫貝に手をくい合わされて溺れました。
       溺れて、海底に沈んだ時の御名を底度久(そことく)御魂、海水
       がつぶつぶあわ立つ時の御名を、都夫立(つぶだつ)御魂、水面
       に出て、泡が開く時の御名を、沫佐久(あわさく)御魂と言う」
       とあります。

       比良夫貝とは、帆立貝の類であろうと言うことですが、威風堂々
       たる猿田彦が、貝に手に食い付かれて溺れるってのが、なんとも。

       猿田彦命は、新妻・宇受売命に良いところを見せようとして緊張
       しちゃったのかも知れませんね。

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