祭 神:天津羽羽神 天豐財重日足姫天皇 説 明:境内の案内板から引用します。 「朝倉神社は天津羽羽神と天豐財重日足姫天皇を祭り、福寿延命の神、文化の神、治政の神であります。 上古、社の御山は開発の神である天津羽羽神のヒモロギ(御神体山)として御山全体を崇敬の対象として畏敬 せられ、やがて文化に伴い朝日さす南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を建てられたので、此の赤鬼山こそ 古代崇敬の名残りで、県指定の史跡地で、西南隅麓の古墳と共にゆるがせに出来ない土地柄であります。 天津羽羽神は古代より此処に鎮座まします国中稀な古社で、跡の世の遷座とか、御分神とかではなく、極めて 深い由緒をもち、土佐国風土記や、日本書紀等の古典にも載せられ、又延喜年間の神名帳にも国幣として登載 せられた所謂式社であります。 斉明天皇七年朝倉宮に行幸せられ、仮の御殿を丸木で造られたので、木の丸殿と申されました。御子・天智天 皇は『朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くはたが子ぞ』と御詠みになられております。 そしてのち天智天皇の勅語により、斉明天皇を朝倉の宮に合せ祀られたとの事であります。 当社はもと勅願所で、当時使用せられた勅使石は今に残って居りますし、又国の勅願所で正一位高加茂大明神 橘の広庭の宮とも申しました。 又、武家の崇敬もあつく、現在の社殿は、二代忠義公が、明暦四年に傾いたのを興されたものであります。 建築は、室町時代の手法を含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に、唐天竺の様式を加味して絶頂の技をつ くし、極彩色のところなどは、日光東照宮の例で、その優美さは『馬には目かくしをしなければ、まばゆさに 驚き通れなかった』と伝えられ、地方には珍しい模範的建物であります。 昭和二十四年二月十八日、国宝に指定され、同二十五年八月二十九日、重要文化財に指定されました。 先賢谷泰山先生は、式社考で深く考証せられ、又藤原雅澄先生は『天津羽羽神のちはひと千世はへむのむみ民 等の心足らひに』と其の神徳を高く尊く詠まれております。 夏祭りは七月廿四日で、当日賛同に設けられる明治初期画匠巨作の合提灯と祭神女神にちなむ活花奉納演芸等 は、夏の夜の美しい饗応であります。 例祭は十一月十日で行事があります」 住 所:高知県高知市朝倉丙2100イ 電話番号:088-844-1360 ひとこと:土佐国風土記の記述も引用しておきますね。 「土佐の国の風土記にいう、―土佐の郡に朝倉の郷がある。郷の中に社がある。神の名は天津羽々の神である。 天石帆別の神、今の石門別の神の子である」 『釈日本紀』にある文章のようですね。 神社の説明にはありませんが、日本書紀斉明天皇七年八月一日の記事 「皇太子は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。この宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の 儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ」 とある、この朝倉山というのが、朝倉神社の御神体である赤鬼山だという説もあるとかで。 斉明天皇の崩御は七年七月二十四日のこと。 喪の儀式は死から一週間後ということになりますね。 鬼は何を思い、何を見ようと覗いていたのか。 一般的に、朝倉山は福岡県にある朝倉山ということになっていますが、伊予国風土記逸文(万葉集注釈)には、 斉明天皇・天智天皇・天武天皇が三人で伊予を五度訪れたとありますし、無視はできない話しだと思います。 何をしに来られたのでしょう。