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波太神社

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  祭  神:角凝命 応神天皇 天湯河板擧命 神功皇后 武内宿禰
  説  明:境内案内板を転載します。
      「鳥取氏の祖神である角凝命を桑畑に祭ったことから、『波太(はた)』の名がつ
       いたものと思われます。
       正確な創建の年代はわかりませんが、927年に完成した『延喜式』という当時
       の政治に関する規則を記した書物には、鳥取郷の総社として記載がみられること
       から、その当時には既に創建されていたようです。
       桑畑から現在の地に移されたのはいつ頃なのかはわかっていませんが、貝掛の指
       出森神社を合祀し、神々を一つの神社に祭ることとしたため、本殿には波太宮
      (祭神は角凝命)と八幡宮(祭神は応神天皇)が祭られ、末社三神社には天湯河板
       擧(あまゆかわたな)命、神功皇后、武内宿禰が祭られています。
       天正五(1577)年には織田信長の紀州雑賀攻めの時、本陣が置かれたという
       記述が『信長公記』にみられます。
       所蔵シナには大阪府指定有形文化財『三十六歌仙扁額』があります。これは宮廷
       絵師である土佐光成の作によるもので、元禄年間(1700年前後)の作品です。
       本殿の前にある石灯籠は慶長五(1600)年の銘があり、豊臣家の重臣片桐且
       元が寄進したものと伝えられています。」
  住  所:大阪府阪南市石田167
  電話番号:
  ひとこと:鳥居をくぐって、参道をしばらく行くと太鼓橋が見えます。
       そして、その向こうに二階建ての社殿が。

      「千と千尋の神隠し」に出てくる「油や」みたい♪

       とはしゃいでるヒマもなく、不思議なことに気づかされます。

       拝殿に向かう階段の途中、まるで何かを遮るように、石灯籠が置かれているのが
       わかりますでしょうか?

       拝殿の両脇に狛犬&石灯籠というのは、珍しくない、というか、それが通常の形
       態ではないかと思います。
       それが、なぜか、参道の真ん中に一つだけデンと鎮座ましますのは、なぜでしょ
       う?

       もちろん、深い意味はないのかもしれませんが、いろいろ考えてみたくなる配置
       だったりします。

       だいたい、「太鼓橋」って不思議じゃありませんか?
       有名な住吉大社の太鼓橋は、正直なところ、「渡りづらい」です。
       雨でも降ったら怖くて手すり放せません。

       別に、まっすぐな橋を掛けてもよいはずなのに、なぜこんなにも湾曲させるのか?

       そもそも、「橋」は川を渡るための手段です。
       川は、「あちら側」と「こちら側」を分けるもの。
       つまり、その川が人為的に作られた川ならば、それは、「あちら側」からの来訪
       について、制限したいという気持ちの現われであると考えられます。
       お城にある「堀」も同じですよね。
       神社の場合、川は「禊ぎ」のために流れている可能性もあります。
       でも、禊のための川が、参道を横切って流れているというのも、不思議な話しで
       すよね?

      「訪れる者」を拒むような形で、川を配置したのは、何を恐れてのことなのでしょ
       う?

       お城の堀の場合、「味方」には、橋が降ろされます。
       その橋は、普通の、渡りやすい平坦な橋です。
       そりゃそうですよね?
      「渡って来ても大丈夫な人」
       だけに、橋を降ろすわけですから、渡り難いしかけをほどこす必要はないです。

       しかし、この神社の場合、橋は渡りづらい「太鼓橋」です。
       その上、拝殿に入ろうとすると、大きな石灯籠が通せんぼしている。

       一体、どんな力の来襲を恐れたのでしょうか??

       この神社は、「鳥取氏」の神社です。
       鳥取氏というのは、垂仁天皇の愛子・ホムチワケ命のために、クグイを捕まえ
       た、天湯河板擧命の子孫ということになっています。

       この話しについては、他でもいろいろ書いてるのですが、とりあえず、日本書
       紀を引用してみます。

      「(垂仁天皇)二十三年秋、九月二日、群卿に詔して『誉津別命は三十歳になり、
       長いあご髯が伸びるまで赤児のように泣いてばかりいる。そして声を出して物
       を言うことがないのは何故か。皆で考えて欲しい』といわれた。
       冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別皇子はそのそばにつき従
       っていた。そのとき白鳥のくぐいが、大空を飛んでいった。皇子は空を仰いで、
       くぐいをごらんになり、『あれは何物か』といわれた。天皇は皇子がくぐいを
       見て、口をきくことができたのを知り喜ばれた。そばのものに詔して、『誰か
       この鳥を捕まえて献上せよ』といわれた。そこで、鳥取造の祖、天湯河板挙が
      『手前が必ず捕まえましょう』といった。天皇は天湯河板挙にいわれた。『お前
       がこの鳥を捕まえたら、きっと十分褒美をやろう』と。湯河板挙はくぐいの飛
       んで行った方向を追って、出雲まで行きついに捕まえた。ある人は『但馬国で
       捕まえた』ともいう。
       十一月二日、湯河板挙がくぐいをたてまつった。誉津別命はこのくぐいをもて
       あそび、ついに物が言えるようになった。これによって湯河板挙に賞を賜り、
       姓を授けられて、鳥取造という。そして、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた。」

       この「くぐい」は、誉津別命の魂であるなどといわれ、この一文には、呪術的
       エッセンスがかなり篭められてるようです。

       鳥は、古来、「人の魂」であると考えられることがしばしばあったようです。

       例えば、古事記の中で、天稚彦の葬儀に、様々な鳥が集まって葬儀を行ったと
       いう記述がありますが、これなんかは、「人が亡くなると、その魂は鳥に化身
       して飛び立つ」という考えの表れではないか、と思います。

       ちなみに、「蝶ちょ」や、「魚」も同じで、「雨月物語」の「夢応の鯉魚」で
       は、僧が一旦命が途絶えた後復活し、「鯉になっていた」と告白するという話
       が出てきます。

       蝶についても同工異曲の話しが今昔などに出てきますが、面白いのは、
       玄宗皇帝が、「今夜の相手」を選ぶために、女達を野に並ばせ、そこに一羽の
       蝶を遊ばせた、という故事でしょうか。
       蝶が羽を休めるために女の一人を選んだら、その女がその夜、皇帝の伽を務め
       るのです。
       まぁ、楊貴妃が表れるまでは、玄宗皇帝はこれほど多くの愛妾がいた、という
       ことを表現するためのエピソードなんでしょうけどね(笑)

       閑話休題。
       そんなわけで、「鳥を取る」「鳥を養う」という仕事は、「人の魂」を扱う仕
       事と考えられても不思議はないと思います。

       そんな人々、人間の魂を扱う人々が、来襲を恐れるものは、なんなのでしょう?
       魂を扱う・・・それは、「人の死を扱う」という意味にもなるかも知れません。

       そんな人々が恐れるものとは?

       ・・・いえ、川は、「外来の敵を遠ざけるため」だけにあるのではないのです。
       鍵は、外から入れないようにするためだけに閉めるものではありません。

       川は、中にいるものが「出てこれない」ように流れることもあるでしょう。
       鍵は、「閉じ込めるため」に掛けられることもあるのです。

       もし、そうだとしたら、「外」の人々は、鳥取の鳥養の人々の、何を恐れたの
       でしょうね。

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