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伊那上神社

inagami




  祭  神:積羽八重事代主命
  説  明:境内案内板を転載します。
      「社伝に依れば当社は第五十二代嵯峨天皇弘仁八年(817)、伊予国越智
       郡三島より遷座したと伝えられ、また伊豆国国府三島より遷座したと伝え
       られる。
       文治元年(1186)の文書に仁科荘那賀郷三島宮正中二年(1346)
       の文書に三島大明神、慶長十三年(1608)時の金山奉行・兼伊豆代官
       大久保石見守が寄進した金燈籠には仲神社と彫りこんである。昔は三島大
       明神、三島宮または仲神社といわれたのである。
       承安三年(1173)、源頼朝当社に参詣され、社田を寄進したので、其
       の後は将軍家の尊崇が篤く、神領五百石を領し、宮殿広大荘厳、末社八十
       有余を有し、西伊豆第一の大社であったが、天正年間の大火に遭い、時の
       社司金差義長四拾余社を再建して従来の大社の面目を保ったが、続いて間
       もなく慶長年間に再び火災に遭い、壮麗の新宮殿、本社、拝殿、社宝、旧
       記、等、一宇も余さず全焼したが、なお二十石の御朱印地を賜わって、大
       社の面影を今も伝えている。
       上宮とは慶長五年(1600)の神領附の古文書が最初である。
       次に現在の伊那上宮という名の現存しているものでは、正徳二年(171
       2)の棟札が最初で唯一神道祭官 従五位下 金指伊賀守義治が署名して
       豆州那賀郷大鎮守也といって従来の伊豆五大社の面目を伝えている」
  住  所:静岡県賀茂郡松崎町宮内3−7−1
  電話番号:
  ひとこと:この神社のそばに、伊那下神社があります。
       こちらは神職さんが常駐しておられるようで、境内には多分手作りの木彫
       工芸品がいろいろと置かれていたのですが、伊那上神社は無人でした。

       伊予国越智郡の三島大神は、大山祇命。
       伊豆国国府三島の三島大社ご祭神は、大山祇命と、積羽八重事代主神。

       しかし、この神社では、大山祇命は祀られていません。

       そもそも、「三島神社」という名のつく神社は、古代からいくつかあった
       んじゃないかと思います。

       ひとつが、伊予国の大三島神社。ご祭神は、大山祇命です。
       そして、もうひとつが、摂津国の三島鴨神社。ご祭神は積羽八重事代主命。

       伊豆国の三島大社が両方を祭っている理由は、このどちらの系統であるか
       不明であるため。
       そして、この伊那上神社の祭神に、大山祇命の名がないのは、ここ伊豆へ
       やってきた「三島大神」は、大阪摂津国三島鴨を源としている。
       というのは、あまりにも短絡的ですが(笑)

       ただ、そう考える理由はもうひとつあります。

       役行者です。

       役行者は、日本霊異記によると、加茂の役の公の氏です。

       日本霊異記 上巻 第二十八「孔雀王呪経の呪法を修め、不思議な力を得、
       現世で仙人となり、空を飛んだ話」をちょっと長いですが引用しましょう。

      「役優婆塞は賀茂の役の公の氏、すなわちいまの高賀茂朝臣の出である。大
       和国葛木上の郡茅原村の人である。生まれつき博学で、常に仏法を信仰し
       ていた。毎夜五色の雲に乗って大空の外に飛び、仙人と手をつないで、永
       遠の世界に遊び、花一面の庭にいこい、長寿の気を吸った。このため、よ
       わい三十有余年で、さらに岩窟に住み、葛の衣を着て、松の葉を喰い、清
       い泉を身にあび、人間界のけがれをすすぎ、孔雀王呪経の呪法を修め、不
       思議な術をさとった。鬼神を駆使することは自由自在で、多くの鬼神を駆
       り立てて、『大和国の金峯山と葛木山との間にひとつの橋をかけよ』とい
       った。そこで神々はみな困りはて、文武天皇の御世に、葛木山の一言主の
       大神が人にのりうつって讒言して、『役優婆塞は天皇を滅ぼそうとしてい
       る』といった。天皇は命じて、使いをつかわし、優婆塞を捕らえさせたが、
       なお不思議な力で簡単にはつかまらなかったので、優婆塞の母をつかまえ
       た。優婆塞は母を許してもらうために、出てきてつかまえられた。すぐに
       伊豆の島に流された。そのとき体が海上に浮かび走ること陸を歩くがごと
       く、高い山にいて、飛ぶことは鳳がかけるようであった。昼は天皇の命に
       したがって島にあって修業し、夜は駿河の冨士の山に行って修業した。と
       ころが刑罰を許されて天皇の辺りに近づきたいと願い、命をかけて富士山
       に登った。この島に流されて呻吟すること三年をすぎて、恩命下り、大宝
       元年(701)正月に朝廷の近くにかえされ、ついに仙人となって空を飛
       んだ。
       わが国の人道昭法師が天皇の命を受けて、仏法を求めに唐に渡った。ある
       とき、法師は五百匹の虎の招きによって新羅に行き、その山中で法華経を
       講義した。そのとき虎の群の中に人間がいて、日本語で質問をした。法師
       は、『誰か』とたずねると、『役優婆塞だ』と答えた。法師はわが国の聖
       人だと思って、高座から下りて捜したがいなかった。
       あの一言主大神は、役優婆塞に呪法で縛られて、いまになっても解けない。
       その不思議を表したことはあまりにも多く、わずらわしいので省略する。
       まことに仏法の不思議な力は広大で、仏法に帰依した人は必ずそのことを
       さとるであろう。」

       加茂氏である役行者が、伊豆の島に流刑になったと書かれていますよね。

       役行者(優婆塞)が伊豆へ流されるとき、自らの信仰する神。
       三島鴨神社のご祭神、積羽八重事代主神をこの地に遷し祀ったという考え
       は、さして変だと思わないわけです。

       そして、もしそうならば、です。

       この霊異記の中に登場する、「一言主神」。
       この神は、役行者を讒言したかどで、役行者に縛られてしまったとありま
       すね。

       実は、この一言主神=事代主神であるとする説があります。

       考えれば変な話しですよね。
       なぜ、讒言した、裏切り者の神を、わざわざ伊豆国へ遷してまで祀るのか。

       ・・・もちろん、こんな考えは馬鹿げているんですが。
       役行者にとって、伊豆への移動は、「想定内」のできごとだった。
       いや、もしかしたら、一言主神の讒言は、役行者の指示によるものだった。

       なんていう考えが浮かんできてしまいます。

       役行者は、何かの理由で、葛城を離れたいと考えていた。
       しかし、これまた何かの理由で、離れられず、計略を練って、伊豆に「流
       罪」となった。

       葛城を離れられなかった理由としては、役行者はあまりにも人々に慕われ
       ていたからかもしれません。

       そして、役行者が葛城を離れ、伊豆へ来たいと考えた理由。
       それを考えると・・・。

       私には、「富士山」以外思いつかないのですが。
       日本一高い山。
       富士山は、宝永地震を引起した、宝永四年(1707ねん)の宝永大噴火
       を最後として、火山活動を休止しています。
       つまり、役行者の時代には、富士山はまだバリバリの活火山だったわけで
       す。

       日本一高い、美しい、活火山。
       日本一美しい女神が鎮まる山。

       神通力を持っていた役行者を惹きつけるに足る、魅力的な山だと思うので
       す。
       そこへ、役行者を連れていくことに成功した神。
       それが、一言主神・積羽八重事代主神である。

       そういう連想をしてしまうのでした。

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