祭 神:豊玉彦命 国津姫命 配祀:穂高見命 豊玉姫命 玉依姫命 事代主命 説 明:ご由緒書を転載します。 「当神社は、通称「海神さん(うながみ)」の名で親しまれ、豊玉彦命・国津姫命 を主祭神とし、垂仁天皇の御代、忌部宿祢(いんべのすくね)が神のお告げによ って、創建したものと伝えられている。 『延喜式』台帳をはじめとして、『三代実録』・『本国神名帳』・『南紀神社録』・ 『紀伊の国名所図絵』・『紀伊続風土記』等々の権威ある図書に、登載されている 県下でもその名の知られた神社である。 昔から朝廷の尊崇も厚く、神田も多く領有していた。 現に鎮座する神領もその名の示す通り、神社の領有地であった。 連綿として栄えて来たこの神社も、天正13(1585)年豊臣秀吉が紀州遠征 の折この社の、本殿2社・供殿・拝殿・神楽殿・宝蔵等ことごとく兵火にかかり、 宝物、古記録等焼失してしまった。 明治6年4月、郷社に、昭和17年9月に県社に昇格された程の格式の高い神社 であったが、大東亜戦争によって、今日に至っている。 毎年10月15日は、神社の例祭で、昔は、青年達の勇壮な「駆け馬」「奉納相 撲」等の行事が、一層、お祭り気分を盛りたてたものであったが、近年、駆け馬 の行事はすたれ、そのかわりとして、本神輿や子ども神輿・可愛い稚児のお渡り、 お餅投げ等が行われている。」 住 所:和歌山県紀の川市神領272番地 電話番号:0736-77-3928 ひとこと:参拝したとき、初老の男性とすれ違ったんですが、私が、 「あ、ここも両部鳥居やね」 というと、 「ここは海の神様を祀る宮なので、両部鳥居だと言われていますよ」 と教えてくださいました。 勉強不足ながら私、両部鳥居といえば修験という単純思考しかなかったんで、 「両部鳥居って、海と関係があるんですか?修験のイメージしかなかった!」 というと、ニコニコしながら、 「ご由緒を御覧になりますか?」 と、拝殿に誘ってくださいました。 男性によれば、宮島の厳島神社も両部鳥居で、海とも関係が深いのではないかと いうこと。 これから、海の宮に参拝するときは、注意して鳥居を観察しようと思います。 お詳しいので、 「氏子さんですか?」 と悪気なく尋ねる私。 笑顔をこわさず、 「いえ、宮司です」 と答える男性。 ……大変失礼いたしました……。 高野山に近い山の中に「海神社」があるのは不思議ですが、社伝によれば、熊野 は鬼ヶ城の神様がこの地に降臨なさったのだとか。 また、この神社のそばには、「和田」「尾崎」という地名があるんですが、宮司 さんがおっしゃるには、どちらも海の近くに多いんだとか。 「和田」は「わた」、つまりは「海」でしょうか。 「尾崎」は「みさき」かな?? つまりは、鬼ヶ城を拠点としていた人たちが、何かの理由でこの地に移り住んだ ということではないでしょうか。 鬼ヶ城を棲み処とした「鬼」たちは、坂上田村麿公に征伐された……と、現代に は伝わっていますが、実際は、鬼ヶ城を拠点に漁業で生業をたてていた人たちが、 豊かな漁場目的の侵略者たちに追われたというのが真相ではないでしょうか。 もしかしたら彼らは、あっさり海を捨て、この山へ移り住んだのかもしれません。 漁猟のうまかった彼らは、狩猟も難なくこなし、この地を新天地として楽しく暮 らした……と思いたいですね(#^.^#) そして、その当時からかどうかはわかりませんが、宮司家はずっと世襲制を守っ てこられたそうです。 宮司さんは、熊野に何度も足を運んでおられるようで、 楯ヶ崎の見事な写真が 拝殿に飾ってありました。 紀の川市の観光ガイドには、 「明神が熊野の楯が崎に出現するのを見た忌部の宿弥が、当時に創立したと伝えら れる神社」 とありますね。 また、NPO法人市民の力わかやまさんが運営する「きのくに風景讃歌」によれば、 「国津姫命は和泉の海中から遷座した」 とのこと。 和泉のどのあたりでしょう。 熊野の海の男神と、和泉の海の女神。 熊野といえば、丹敷戸畔の本拠地ですが、貝塚に「二色浜」があるように、なん らかの関係があったのではないかと言われていますね。 とすればここ海神社を祭祀していたのは、丹敷戸畔を長と仰ぐ人たちではなかっ たかと思います。 丹敷戸畔や名草戸畔のことを思うとき、私は本当~に神武が嫌いっ!!!!! お昼ごはん前で、旦那がガス欠寸前だったので、あんまりゆっくりお話しを聞い いられませんでしたが、 「またおいでください」 と名刺をくださったので、秋の例祭にはぜひ、また参拝したいと思います(#^.^#) 実は、現在は干上がってしまっていますが、この神社のそばに「海神池」という 名の池があったようで、ここに何か伝説がないか知りたかったんですが、すっか り聞き漏れてしまいました(T_T) 次には絶対教えていただきます!