祭 神:宇迦之御魂神 説 明:角川書店『日本の伝説19』を転載します。 「この社は、初代直政が上州箕輪から彦根へ転封された時に、常陸の笠間稲荷を勧請したもので、 はじめは金亀山へ祀られたが、のち城が築かれたのでその内へ囲い込まれて、人びとが参詣で きなくなった。京橋口から遥拝している人びとを見て、十一代直中が現在の場所へ移させたの だという。 笠間稲荷がいつか瘡守稲荷になって、もっぱら梅瘡・皮膚病の治癒に祈れば霊験があると信じ られて来た。むかしはまわりに竹藪や林があって、人びとの病毒を代わりに引き受けた老狐が 棲んでいたそうで、油揚げや土団子を供えて祈る人が絶えなかったという」 住 所:滋賀県彦根市馬場1丁目4 電話番号: ひとこと:瘡と一言で行っても、天然痘かもしれないし、梅毒かもしれないし、あるいはハンセン病かも しれず、断言はできないのですが、「瘡守(森)稲荷」として知られる神社は、梅瘡……つま り、梅毒治癒の霊験があるとされるお稲荷さんが多いようです。 だから、遊郭や港町のそばに多く鎮座しているんですね。 しかし、梅瘡が日本に輸入されたのは江戸時代。 それ以前に「瘡」と言えば、天然痘でしょう。 奈良時代に仏教とともに伝来し、日本にパンデミックを起こしたようです。 物部守屋と蘇我馬子が神か仏かで言い争ったのも、天然痘の脅威が背景にあると考えてよいで しょう。 必死だったんじゃないかな。 急に人々がバタバタと倒れだし、助かっても顔にあざを残すことがあるわけですから、何かの 祟りだと考えるのも当然だと思います。 ハンセン病患者も悲しい処遇を受けました。 天然痘と違い、伝染性は低いんですが、昔の人にはわかりません。 だから、人里離れた村やお寺に隔離された患者もたくさんいたのですね。 奈良坂の北山十八間戸は、彼らの救済施設でもあり、同時に隔離施設でもあったと考えられて います。 そんな人々にとって、神様の存在は一筋の光だったのでしょうね。 また、吉行淳之介氏によれば、梅瘡に限って言えば、第一期には腫物ができるけれど、第二期 になると一旦綺麗に消えてしまうため、それをして「治癒した」と勘違いしたのではないかと のこと。 だからこそ、「霊験がある」と流行したと推察されていました。 WIKIなどを見ると、感染すると、病原菌が侵入した部位にまず症状が表れるようですね。 次に、体中に「バラ疹」が出るのですが、これが放置しておいても1ヶ月で消えるらしい。 侵入口っていうことは性器が多いでしょうね……。 人によっては、感染に気付くのはバラ疹の段階なのかもしれません。 でも、すべての人のバラ疹が1ヶ月で消えるわけで、そのまま治癒すると勘違いするかなぁ(^^ゞ いろいろ謎はありますが、決定的な治療法が確率されていなかった時代、神頼みは当然だった のかもしれません。 しかし、彦根の瘡守稲荷に特徴的なのは、「老狐が人の病毒を引き受けた」というくだりでは ないでしょうか。 人々の災厄や罪ケガレなどを、代理の誰かに背負わせるという発想は、決して珍しいものでは ありません。 たとえば、流し雛はその発想から生まれたものですよね。 また、中世の「解死人」もそう。 大河ドラマ『井伊直虎』では、ムロツヨシ演じる瀬戸方久は、村人の代理として敵対する村に 差し出される人物として登場しました。 これが解死人(げしにん)なわけです。 誰かが誰かを殺すような事件が起きた際、加害者側の人間たちが、加害者本人の代わりに他の 誰かを被害者側に差し出し、手打ちにしようとするもの。 つまり、解死人は、加害者の罪を背負わされた者なわけです。 加害者が見つからない場合の人質である場合もあり、解死人の運命はその時々で違ったようで すが、どういった人物が解死人にさせられたのかは想像するに余りあるでしょう。 その役割を「老狐」が背負うというわけですが……。 この老狐は崇拝の対象だったのか、それとも……。 聖は邪。邪は聖。 しかし、ただの邪として扱われなかったのには理由があるでしょう。 私はそういった存在に惹かれるのです。