祭 神:天照皇太神 表筒男命 中筒男命 底筒男命 品陀別命 清瀧命 説 明:案内板から引用します。 「古くは元町大峰の東北端に鎮座していたそうです。 『新抄格勅符抄』に大同元(806)年のこととして、片岡神の神戸(封戸、昔神領に付属して租・庸・調を神社に 納めていた農民)のことが出ているそうで、その頃すでにこの神社が成立したいたことを示しています。 また、『三代実録』には貞観元(859)年正月、正五位下に昇叙されたことが出ています。 この社は、放光寺の鎮守社ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社、金計神社ほか計四社がまつられてい ます。 社伝によると風雨の神として尊信せられ、正暦五(994)年には疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人が宣 命使となって救済を祈願して奉幣したといわれています」 境内にあった栞を引用します。 「祭神:豊受皇大神 清滝大神 住吉大神 八幡大神 天照皇大神 本社は平安時代の延喜五(905)年に編纂が始まった『延喜式』に『片岡坐神社』として登載される延喜式内 社で、『名神大社』の格をもち、月次祭・新嘗祭の奉幣に預かっていました。さらに古く、大同元(806)年 『新抄格勅符抄』には片岡神に三十戸の封とを置く記事が見え、『三代実録』の貞観元(859)年正月二十七日 条には片岡神社に正五位下を授ける記事が、同年九月八日条には片岡神が風雨祈願の奉幣を受けた記事が見え ます。また拝殿には、江戸時代の安永七(1778)年に王寺村の人々が『雨願成就』のために捧げた大絵馬が残 されています。 往古は葛下郡片岡郷の総社であったと伝えられ、室町時代や江戸時代には『五社大明神』と呼ばれていました。 明治六(1873)年に郷社に列せられ、同四十二(1909)年には王寺村内にあった金計神社、大原神社、住吉神 社の三社を合祀しています。本社は囲碁の丘陵上にある大峯では地区内の旧鎮座地に小祠を祀り、宮座を組織 して本社祭礼を担っています。現在の拝殿は平成二十(2008)年に元の建物にならって建て替えたものです」 住 所:奈良県北葛城郡王寺町本町2‐6‐1 電話番号: ひとこと:なぜか由緒では一切触れられていないんですが、片岡と言えば思い出すのは、日本書紀にある、聖徳太子と餓 人のエピソードでしょう。 「推古天皇二十年十二月一日 皇太子は片岡においでになった。その時餓えた者が道のほとりに倒れていた。名を尋ねられたが答えなかった。 皇太子は食物を与えられた。また自分の衣服を脱いで、餓えた者にかけてやり、『安らかに眠れ』ごいわれた。 そして歌って『シナテル、カタヲカヤマニ、イヒニヱテ、コヤセル、ソノタビトアハレ、オヤナルニ、ナレナ リケメヤ、サスタケノ、キミハヤナキ、イヒニヱテ、コヤセル、ソノタビトアハレ』といわれた。 二日 皇太子は使いを出して、餓えていた者を見させられた。使いが返ってきて、『餓えていた者はもう死んでいまし た』といった。皇太子は大いに悲しまれた。そしてその場所に埋葬し、塚を築かれた。数日後、皇太子は近習の 者に語って、『先日道に倒れていた餓えた者は普通の人間ではあるまい。きっと聖者だろう』といって使いをや って見させられた。使者が帰ってきていうのに、『墓の所に行ってみましたら、墓は動いておりませんでしたが、 あけて見ると、屍は無くなっておりました。ただ衣服だけが畳んで棺の上にありました』といった。皇太子はま た使者を戻らせて、その衣をとってこさせられた。そして以前のごとく再びお召しになった。時の人は大いに怪 しんで、『聖は聖を知るというが、それは本当なんだなぁ』といっていよいよかしこまった」 これだけではなんのことやらわからないかもしれませんが、道教の尸解仙を知っていれば、なるほどと思います。 尸解仙とは、一度死んだ人が棺から抜け出て、どこかの土地で仙人になること。 仙人には天仙・地仙・尸解仙があり、尸解仙が一番格下なんですけどね。 私が読んだ尸解仙の話しでは、靴とか服とか、埋葬されたときに身に付けていたものを置いて仙人になるようで した。 つまり、片岡の餓えた者は仙人になったわけですね。 聖徳太子は仏教の知識が深かったそうですが、道教のこともよく知っていたらしい。 この神社の前にある達磨寺の山号は片岡山。 餓えた者は達磨大師の化身だと考えられたので達磨寺なんだそうです。 達磨大師といえば禅宗……と考えたら、道教とは近いのかな。 達磨寺の伝説では、聖徳太子の愛犬は雪丸といい、人語を話したとか。 境内に雪丸像があるのですが、お正月にこの像が鳴くことがあり、それは吉兆なんだそうです。 なんだかんだ、このあたりと聖徳太子は、「妖しい」感じがしますね。