kenkou

御上神社

mikami




  祭  神:天之御影神(天照大御神の御孫)
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「社記によると当社は古来御上神社、三上大明神社と称し、湖東平野の連山に
       悠然と美しく聳え立つ三上山を神体山として鎮祭されている。
       お山は別名御上山、三神山、御影山と称されているが、近江冨士又は俵藤太
       の百足退治の伝説に因んで百足山とも呼ばれている。
       天之御影神は天目一箇神と御同神で又は忌火神、二火一水の神と信仰され、
       火徳水徳の霊威あらたかで山頂を龍王様と呼んでいる。
       標高432Mで、高い山ではないが全山青々と茂った赤松の美林は神山に相
       応しい。遠くからは孤峯に見えるが近づくと男山女山の二峯から成立してい
       る。
       起源は第七代孝霊天皇六年六月十八日に祭神天之御影神が三上山に御降臨に
       なったので、神孫の御上の祝(神主)等は三上山を清浄な神霊の鎮まります
       神体山として斎き祭った。古事記開化天皇の段に『日子坐王は天之御影神の
       女息長水依比売を娶り水穂真若王をお産みになった、この真若王の子孫は安
       直即ち野洲国の地方神官になられた』とある。それから後の奈良朝初期元正
       天皇養老二年に藤原不比等が勅命により始めて現在の地に栢の木で本宮を造
       営して迂祀し奉った。然し現今でも三上山の磐境を奥宮(本体)とし、山麓
       の本宮を里宮として不二一体の信仰祭祀が古代のまま行われている。この事
       実は本殿裏扉の構造や年間の祭祀にも現れている。
       即ち旧六月十八日祭神御降臨の日には神職氏子等は未明に登頂して神迎えの
       山上祭を行い、下山して本宮で再び祭神奉迎の影向祭が行われる。
       本殿の裏扉は祭典時にお山を拝むために構営され神体山信仰の様式手法を伝
       えている。
       社記によると当社の神領は古代三上山を中心に山千町、河千町、田千町と伝
       えられ、甲賀郡横田より下は野洲郡吉川に至るまで五十余郷の産子を有し、
       国家安穏、五穀豊穣の守護神として朝野の崇敬極めて篤く、清和天皇の御代
       には正一位の神階を受け給い併せて社殿の御修営あり、是から恒例三度の勅
       使を賜った。次で醍醐天皇の延喜制度では、明神大社に列せられ、月次、新
       嘗の官幣に預からせ給うた。さらに円融天皇の御代には勅願所と定められ、
       宝そ無窮、四海大平の御祈りをせられた。代々神領を寄進し、社殿を修営し
       て尊崇が深かった。
       明治維新の神道復興の時運に際し、漸次御社頭を整備して大正十三年には県
       社から一躍官幣中社に御列格遊ばされたが、昭和二十年十二月十五日神道指
       令の主旨により社格は廃止され旧来の御神神社に複した。」
  住  所:滋賀県野洲市三上838
  電話番号:077−587−0383
  ひとこと:まずは、御由緒の冒頭にある、俵藤太の百足退治に触れねばならぬでしょう。

       俵藤太とは、実在の武将の名で、平将門公を誅した英雄です。
       この俵藤太が、ある日、勢田の橋を通りがかると、恐ろしい龍が横たわって
       おりました。
       しかし、肝っ玉の太い藤太はいっかな畏れることもなく、「邪魔な虫だ」と、
       龍を踏みつけて渡るのです。よっ!かっこいいねっ!
       実はこの龍、琵琶湖の龍神で、三上山に住み着いた大百足に苦しめられてい
       たため、百足退治をできる勇者を探していたのです・・・って、龍が倒せな
       いような化け物退治を人間に頼むなよ(^^ゞ という話ですが、さすが藤太は
       勇敢です。いや、勇敢っつぅか有閑つうか、憂患つぅか(笑)
       まぁ、普通の神経の持ち主なら、「そんなん無理っ!」と逃げ帰るような無
       茶な依頼に「お任せあれ」と了解してしまいます。
       あんたはドラヱもんかっ!!

       まぁ、とにかく、そんなわけで、俵藤太は、三上山へやってきます。
       件の大百足は、三上山を八巻半もしている・・・とんでもない大百足ですよ
       ね。

       しかし、藤太、微塵も畏れず、矢を放ちます。
       狙いはバッチリ、百足の急所に命中・・・と思いきやっ!!!(興奮)
       大百足の体は鋼鉄でできているのか?!
       矢は簡単に弾き飛ばされてしまって、さぁ大変!!
       藤太、ピ〜〜ンチ!!

       それでも、藤太、ま〜ったく焦らず、
      「そうそう。人間の唾は、魔物にとって毒になるんだったよな」
       と、矢に唾をたっぷりつけてひゅうと放てば!でんでけでん!!

       今度は、百足の体に深く突き刺さり、飛び散る血しぶき、百足怒涛の身もだ
       え、夜響の咆哮。
       ついに、百足はどうと地に倒れ付したのでありました。

       まぁ、そんな話ですが、俵藤太が将門公を誅した人物、ということからもわ
       かるように、この大百足、将門公を暗喩しております。
       その百足が三上山に住んでいたということは、この三上山、将門公にご縁が
       あったのでしょうね。
       私は、将門公について全く知識がないのでわかりませんが。

       ただ、百足は、もしかしたら、毘沙門天に関係が深いかもしれません。
       信貴山朝護尊寺の本堂に、リッパな百足が彫刻してあったので、寺務所の方
       に理由を尋ねましたら、
      「百足は毘沙門さんの乗り物です」
       とのこと。
       現在は、毘沙門さんの乗り物として、寅が有名ですが、昔は、百足だったそ
       うです。

       さて、ご祭神、天之御影神は、天目一箇神と御同神・・・とありますね。
       また、忌火神、二火一水の神と信仰されている、と。

       栞には、ご祭神の説明として、
      「忌火の神、二火一水の霊神として称えられ、金工鍛冶の祖神で、社紋は釘抜
       紋である。古代当地方は鉄鉱鍛冶工業が発達して祭神の子孫三上族は近畿一
       円に繁栄していたことを記しているが、著名なことは、第十代崇神天皇の御
       代、三種の神器を御模造の時、祭神八世の孫国振立命は三上地に於いて神剣
       を鍛え奉ったとのことである。三上山の北隣の大岩山や桜生から計二十四個
       の銅鐸を発掘されたが国内で一番大きなもので、数も多く往古の状況を忍ば
       れる」
       とあります。

       つまり・・・。
       この天之御影神は、
       天目一箇神と同一神であり、
       さらに、忌火神、二火一水の神という別名も持ち、
       天照大神の孫であり、
       国振立命の八代祖である。

       ということになるわけですね?

       なんか、ややこしい(^^ゞ

       さらに、旧事記には、「天御陰命」という神様が登場しまして、こちらは、
       邇芸速日命の「三十二人の防衛」のうちの一人として天下ったとなっていま
       す。

       似た名前だからといって、同一神であるとは限らないのが、神話の世界なん
       ですが、なんにしても、いろいろな「顔」を持つ神様であることは間違いな
       さそうです。

       そして、私が、なんとはなしに気にかかるのが、神迎えのお祭です。

       このご祭神は、太古、三上山に降臨されたわけですよね。
       そして、現在でも、毎年、その降臨された日である、(旧暦)6月18日に、
       神迎えのお祭をする、そこまではわかります。
       問題は、その「場所」です。

       神が三上山に降臨なさって、そのままそこに鎮座なさっているのだとしたら、
       神迎えの祭りは、山の麓において、山に向って斎行されるのが、自然なよう
       に思うんですが、どうでしょう。

       わざわざ山頂まで出向いて神迎えをするというのは・・・。
       ご祭神は、普段、別のところに鎮座なさっている、という風にも受け取れる
       のです。

       古代において、ある一柱の神を、離れて居住する二つ以上の部族が、「共有」
       するということは有り得たのでしょうか?

       例えば、この「山頂に降臨した天之御影神」は、別の日には、富士山に降臨
       なさって「冨士大明神」と呼ばれ、また別の日には筑波山に降臨なさり「筑
       波大明神」と呼ばれる。
       そして、それぞれその神を祀る部族の間で、それが了解しあわれていた、と
       いうことは、有り得るんでしょうかね?

       ただ単に、毎年神迎えの日に、神をお迎えするために、山頂でお祭をするの
       は、普段、御祭神は「天」におられる、と考えられていたのかもしれず、そ
       う考えるほうが自然ですけどね(^^ゞ

       それにしても、忌火神・二火一水の神、という名称は、そそられます。
       忌火というと、一般的には、神饌を調理したりするための神聖な火のことを
       差しますよね。

       が、ご祭神の別の姿である天目一箇神は、製鉄の神様です。
       製鉄に使われる火は、神聖な火と呼ばれたのでしょうか?
       製鉄はなぜか「死」を強く連想させます。

       例えば、丹後半島の伝説に、「撞かずの鐘」と呼ばれるものがあります。
       成相寺に鐘が造られることになった時、ある貧乏な女が寄進のお金を都合で
       きず、「私の子供を寄進いたします」と言ってしまうのです。

       その後、鐘を鋳造することになるのですが、何度溶かして固めても、大きな
       空洞ができて、鐘になりません。
       何度かの試みの末、なんとか鐘は完成するのですが、それと同時に、件の女
       の末の息子が行方不明になったのでした・・・。

       その「製鉄の火」と「清浄な火」は、なんだか相容れないように思います。

       そうすると、注目されるのが、「二火一水の神」という、御祭神の別名。

      「二火」とは、「製鉄の火」と「清浄の火」という二つの火を意味するのかも
       しれません。

       では、「一水」は?

       よくはわかりませんが、山頂を「龍王様」と呼んでいるということですから、
       やはり、恵の雨である、と考えるのが、自然・・・かな?

       でも、そうなると、「二火」のうち、少なくとも一つの「火」は太陽である
       べきだ、という気になるのですが・・・。

      「太陽」は「清浄な火」と言えるかもしれません。

      「忌火」は、木と木をこすり合わせて作るようですが、凸レンズで太陽光を集
       めた火も「忌火」と呼んでもいいかもしれませんね。

home 神社のトップに戻ります back