kenkou

波上宮

naminoue




  祭  神:主神 伊奘冊尊
       相殿左 速玉男尊
       相殿右 事解男尊
  説  明:境内案内板を転載します。
      「創始不詳なれども、往古この南西諸島に住んだ我々の祖先が、海の彼方に神の国
       の存在を信じ、日々この神に祈る拝所(御願所(うがんじょ))として、この波
       の上の崖端に祭りを営んだのに始まる。
       当宮御鎮座伝説に、昔、南風原村崎山の里主が、海岸で霊石を得、熊野神より国
       家鎮護の神託を受け、王朝に奏して社殿を建て祀ったと云う。
       正平二年(1367)、察度王の時、頼重法印が当宮麓に波上山護国寺を建て、
       真言宗沖縄本山とし、後に袋中上人は、その著、琉球神道記で、当宮を『当国第
       一の神社』とし、又沖縄の万葉集と云はれる『おもろ草紙』に、当宮の盛んな御
       造営の模様がうたわれた。寛永十年(1633)、尚豊王の時、火災に遭い、同
       十二年再建。
       琉球王国時代を通じて、その国家事業たる海岸貿易の根拠地那覇港の、出船入船
       の海路安全守護神として、長く朝野の盛んな信仰を集め、琉球八社(官社)の第
       一位に位した。
       明治二十三年一月二十日官幣小社に列し、大正末期より昭和年代にかけて社殿そ
       の他大いに整ったが、太平洋戦争末期に戦火により、鳥居・社号標若干の灯篭以
       外すべて灰塵に帰し、国宝の挑戦鐘もこの時に破壊された。
       戦後昭和二十八年末に本殿、社務所、同三十六年に拝殿、同四十二年参集所を再
       建。
       昭和四十七年五月十五日沖縄復帰の大祭を斎行す。」
      「当宮は、古く沖縄独特のニライカナイ信仰(海の彼方より降伏を持ち来る神々に
       祈る)に始まる。
       その後、この聖地に神のお告げにより王府が熊野三神を祀り、以来、朝野の尊崇
       極めて篤く『端城(はなぐすく)』または『なんみんさん』などと称され、親し
       まれてきた。
       社殿の創建は不詳ながら、史記『琉球国由来記』に薩摩の頼重上人が波上宮の別
       当寺として、波上山護国寺を開山(1368)し、ここ宮寺を王の祈願所とした
       とみえ、創建時がうかがわれる。
       また、大永二年(1522)、寛永十年(1633)、享和三年(1803)な
       どには天災・火災などによる造営や再建の様子が史籍に散見せられる。」 
  住  所:沖縄県那覇市若狭1−25−11
  電話番号:098−868−3697
  ひとこと:沖縄の信仰については、まったく詳しくないので、とりあえず、開闢神話を紹介
       したいと思います。

       沖縄県教育文化資料センター刊「沖縄の文学」。
       沖縄歴史教育研究会の仲村さんからいただいた本なのですが、ここに開闢神話の
       現代語訳が掲載されていますので、引用させていただきたいと思います。
       原典は、「中山世鑑」。
       琉球国最初の正史とされ、編纂は、1650年。
       江戸時代ごろの書物ですね。

      「昔、天城に阿摩美久(アマミク)と云う神がおられました。天帝が彼を召してお
       っしゃるには、『この下界に神の住むべき霊所が有る。だが、まだ島の形となっ
       ていないのが残念だ、おまえが降りて島をつくってくれ』と命ぜられました。
       阿摩美久は謹んで御命令を受け下に降りて見ますと、確かに霊地であるとは見え
       るのですが、東の浪は島を打ち越して西側に落ち、西の浪は東側の海に打ち越し
       ていく有様で、まだ島としての形を成してはいませんでした。
       それで、阿摩美久は再び天に上り、天帝に『土石草木を下されば島を作って差し
       上げましょう』と申し上げました。天帝は立派にお考えになり、土石草木を阿摩
       美久に下さりました。阿摩美久は、その土石草木を持って下り、すべての島を作
       りました。
       先ず最初に作ったのは、国頭の辺戸の安須森、次に今帰仁のカナヒャブ、次に知
       念杜、斎場獄、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ杜、次に首里杜
       真玉杜、次に島々国々の、獄々森々を作りました。
      (しかし)数万年経っても人が居なくて、神の威光を表そうにも表せないので、阿
       摩美久は、また天へ上り、人の種子を下さるようお頼みしました。
       天帝は『お前が知っているように、天界中に神は多いのだが、下界に下すにふさ
       わしい神はいない。だからといって、黙止することは出来ない』とおっしゃって、
       天帝の御子の男女を降ろしなさいました。
       この二人は夫婦の交わりはなかったのですが、住居を並べて住んでいたので、行
       き来する風が仲立ちとなって、女神は妊娠なさいました。そうして遂に三男二女
      (の人間)を産みなさいました。
       長男は国王の始まりです。これを天孫氏と称します。次男は諸侯(按司)の始め、
       三男は百姓の始め、長女は首里王府の女神神官である女神官である君の始め、二
       女は地方の女神官であるノロの始めです。このことが始まりとなって人間の夫婦
       の交わりというものは行われるようになったのです」

       記紀神話において、国土を作ったのは、最初の夫婦神である、伊奘諾尊・伊奘冉
       尊であるとなっています。
       そして、二人は、「夫婦の交わり」をして、多くの神を産みました。

       伊奘諾尊と伊奘冉尊の関係は、最初の夫婦であると同時に、「妹背」。
       兄と妹であると考えて良いと思います。

       しかし、気にせず、夫婦の交わりをしている。

       沖縄の神話では、兄と妹は「夫婦の交わり」をしませんでした。
       成立の時代が、近代に近いので、近親相姦の思想が生まれたからかもしれません
       し、風土的な違いかもしれません。

       そして、アマミキョ。
       神話によっては、アマミキョは、「シネリキョ」と夫婦であるとするものもあり
       ます。
       もし、そうならば、彼らは、記紀神話の、イザナギ(伊奘諾)・イザナミ(伊奘
       冉)に、非常に近いです。

       ただ、神話というものは、影響しあうものですから、イザナギ・イザナミが、沖
       縄土着の神話に影響されて似ている可能性もありますし、反対もありえますよね。

       現在の、この神社の御祭神は、イザナミ(伊奘冉)と、イザナギ(伊奘諾)の分
       身とされる、速玉男命と、事解男尊。
       ただし、速玉男命と事解男命誕生のシーンは、少し意味深です。
       炎の神である迦具土を産んだイザナミは、死んで黄泉の国へ行くのですが、追い
       かけてきた、イザナギと仲たがい。
       黄泉から帰ってきたイザナギは、「汚いところに行ってしまった」と、唾を吐き、
       そこから、この二神が生まれるんですね。
       つまり、この速玉男命と事解男命は、イザナギの中でも、黄泉の香りが強いとい
       うこと。

       しかし、この波上宮は、ニライカナイ信仰の地だということ。
      「常世」ですよね。
 
       熊野の神は、現代の感覚では、「常世」よりも、「黄泉」の色合いが強く感じら
       れます。
       しかし、本来は、「黄泉」は、「常世」と同じだったのかも。
       どちらも、「この世」ではないということは、「異国」ですからね。

       そして、この神社創建に関する伝承が、「海岸で霊石を得た」ということ。

       つまり、波上宮には、漂着神信仰の要素もある。

       流れ着くものは、禍福どちらのものかわかりません。
       もしかしたら、琉球の人にとって、異国は、幸でも災でもない、とてもニュート
       ラルなものだったのかも・・・。
       なんとなく、そんな気がしたのでした。

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