祭 神:大国主命 少彦名命 菅原道真命 説 明:案内板から引用します。 「当社の創始は奈良時代にさかのぼる。平安時代の醍醐天皇の御代に、延喜式の国幣の官社に指定された。 加東・加西三十五箇所の総社として例祭には、国家より幣帛が供遣された格式の高い神社である。 ご祭神大国主命、少彦名命は、記紀によれば協力して国土を拓き、農工商すべての産業開発、方除、治 病、縁結等、世の中の幸福を増進された人間生活の守護神である。 ご祭神菅原道真命は学者であり、政治家であり、至誠の人であった。天神信仰によって道真公は学神と して庶民に奉斎されていった。また芸能の神としても崇拝されている。」 住 所:兵庫県加西市繁昌町529 電話番号: ひとこと:この神社のそばに百代寺があり、古来深い関係があったようです。 それゆえか梵鐘もありました。 そこにあった案内板を引用しますね。 「播磨国風土記ゆかりの地 『播磨国風土記』は、奈良時代初期713年5月の官令により作成された地誌で、715年頃に編纂されたものと 見られています。この日本最古の地誌である『播磨国風土記』には、地名の由来や土地の伝承、土地の 肥沃さなどが記されており、当時の生活や文化、自然、人やものの移動など、様々なことをうかがい知 るころができます。加西市は賀毛郡に含まれ、ゆかりの地が多く登場しています。 12川合里 『播磨国風土記』に、川合里の由来は、「端鹿(はしか)川の尻と鴨川がこの村で会うから」とあります。 端鹿川とは、端鹿里を流れる川、つまり東条川と考えられます。東条川の尻=最下流で会う(合流)す る鴨川は、賀毛郡を流れる最大の川である加古川と考えられます。 川合という地名は、現在小野市に河合地区として残っていますが、中世期の記録を見ると西河合郷と東 河合郷という二つの郷があります。ここ乎疑原神社に立派な梵鐘があり、その銘文に『播州賀西郡西河 合郷』とあります。増位山随願寺(姫路市)にあった梵鐘が、大永6年(1526)にこの神社に木蔵され、 その際に追記されたといわれています。 繁昌廃寺『播磨国風土記』には記述はありませんが、繁昌町には白鳳時代(7世紀後半)の寺院の繁昌 廃寺がありました。南北の門と塔・金堂・講堂・西土塁が発見され、寺域は南北125m、東西は推定84m。 金堂の南に2塔を置く薬師寺式の伽藍配置で、付近からは繁昌廃寺で使用された瓦の窯が発見されてい ます。 また、普光寺川の河原で発見されたといわれる乎疑原神社石造五尊像(白鳳期)は、繁昌廃寺の仏像で あった可能性が高いと考えられています」 つまり、繁昌廃寺の歴史がわからなきゃ、乎疑原神社のこともわからんのではないかと(^^ゞ でも面白いのは、「西河合郷」がこの地であったのではという推測ですね。 加東市と加西市の「加」がなんなのか。 ……まぁ、賀毛郡の「賀」と考えるべきだとは思いますが、その中の「河合郷」にも西と東がある。 なぜそうも、西と東に分けたがる? ……このあたりも、関西というよりは出雲の気配がプンプンしますね(^^ゞ