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大村神社

omura




  祭  神:大村の神 (配祀)武甕槌命 経津主命 天児屋根命
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「御由緒
       大村神社は延喜式神名帳に載っている古社で、主神の大村の神は、阿保氏族の始
       祖、息速別命と申し、今からおよそ二千年程前の神様で、第十一代垂仁天皇の皇
       子、伊勢の神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたられます。
       当社の鎮座する阿保村は伊賀東南部に位置し、古くは奈良・京都から青山峠を越
       えて伊勢・東国に抜ける街道の要所で阿保頓宮も置かれていまhした。
       又、当社の鎮座する地は、息速別命の宮室が築かれていたと伝えられています。
       大神様はこの地域一帯の開発・開拓された土地の守り神として、また自信除災の
       大神様として古今御神威を発揮され、多くの人々の信仰をあつめています。
       御祭礼
       数多い御祭礼の中でも秋の例大祭が最も盛大であります。十一月二日の宵宮は、
       古式に習い祭講の参拝があり、又、境内では獅子神楽が奉納され、参詣者で賑わ
       います。地震除災祈願祭は九月一日に執り行われています。
       境内
       自身守護『要石』
       境内に『要石』が奉斎されております。
       創祀は、神護景雲元年(767年)、相殿奉祀の武甕槌命・経津主命は、常陸下
       総から三笠山遷幸の途次、当社に御休泊、『要石』を奉鎮せられました。
       この神石は大地をしっかり護って下さる有難い霊石です。
        ゆるぐともよもやぬけまじ要石
          大村神のあらんかぎりは
       この呪文は古くから伝えられ、自信守護を願う人々のあいだで唱えられて参りま
       した。御霊験は著しく、ことに安政元年伊賀上野大地震には不思議とこの地方は
       難にまぬがれたと伝えられています。
       虫喰鐘
       日本三代奇鐘のひとつといわれる虫喰鐘は当社境内の鐘楼にあります。鐘乳はぼ
       ろぼろと虫が喰ったように全て朽ち落ち、様々な伝説が伝わっています。
       現在は除夜の鐘・請願成就の鐘として広く信仰をあつめています。」
  住  所:三重県伊賀市阿保1555番地
  電話番号:0595−52−1050
  ひとこと:小山の上に鎮座する神社なのですが、眼下には木津川が豊かに流れ、木々が色濃
       く影を作る。
       なんとものどかな神社でした。
       
       私たちが参拝したとき、ちょうど境内を清めておられた宮司さんが、
      「どちらからいらしたのですか?」
       と声をかけてくださいました。
       
       この神社の雰囲気に相応しい、物腰もお声も柔らかな方でしたが、同時に知識欲
       の旺盛な方なのでしょう。
       何を質問しても、とても詳しく教えてくださいます。
       
       まず大阪は河内在住の私にとって、松原市にある「阿保」の地名との関わりが気
       になるところですが、宮司さんのお考えでは、「ないんじゃないかとのことでし
       た。
       確かに、松原市の「阿保」は「あぼ」と読み、ここ伊賀の「阿保」は「あお」と
       読みます。
       漢字はあて字のことが多いですからね……。
       
       また、要石も非常に興味深いものですよね。
       この神社の近くには、同じく地震守護の神である名居神社もありますし、ここ名
       張市は地震鎮護の神のメッカのようなイメージがあります。
       宮司さんにうかがってみると、さまざまな研究者が、地震との関わりを調査して
       この神社に参拝されるとか。
       そして確かに、この真下を「中央構造線」……つまり断層が走っているのだそう
       な。
       
       その地に「要石」があるのは、もちろん偶然ではないでしょう。
       それにしても……昔の人が、なぜここが、構造線の上であると知り得たんでしょ
       うね?
       不思議。
       
       また、この神社は倭姫が伊勢へ向かう途中に立ち寄ったとされる地であり、また、
       常陸の鹿島・香取の両神が春日へ遷幸の際に立ち寄ったともされます。
       つまり、往古より、旅人にとっては、ほっと安らぐ場所だったのではないでしょ
       うか。
       境内には旅鳥と思われる鳥の鳴き声が満ちていました。
       
       
       さて、ここ伊賀は「忍者」で知られる場所でもあります。
       忍者とはいったい、なんなのでしょうね?
       
       この神社の近くには、「藤原千方」の伝承地があります。
       藤原千方は、太平記にも登場する「鬼」で、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四
       人の鬼を部下として従えていたと言います。
       でも、もちろんこれは伝説で、実際はこの地方を支配する豪族で、朝廷にまつろ
       わぬ武将だったのでしょう。
       この鬼が敵の首を投げ込んだ血首の井戸などが残っているのですが……。
       そう、この藤原千方こそ、忍者の発祥であるとされているんですね。
       
       まつろわぬ民と忍者……。
       この組み合わせは決して珍しいものではありません。
       
       葛城を本拠とした、役小角。
       彼もまた、「まつろわぬ民」の一人。
       彼は修験道の創始者であり、仙人でもありましたから、忍者との関連は、決して
       浅くはありません。
       
       その役小角の時代からくだって南北朝時代、やはり葛城の麓を本拠地とし、修験
       者を束ね、山での戦を得意とする兵法の達人が現れます。
       その名を楠木正成公。
       そして彼は、ここ伊賀と無関係ではありません。
       ここに、「上嶋家文書」という古文書があります。
       これによれば、楠木正成の姉妹が上嶋元成に嫁ぎ、その間に観阿弥が生まれたと
       されているのです。
       上嶋氏は伊賀国の服部氏族とされているわけで……。
       楠木正成公と伊賀の関係が垣間見えるのです。
       
       そして、ここ大村神社に伝わる「虫喰の鐘」も、葛城との関係が……。
       
       境内の「虫喰の鐘」案内板を見てみましょう。
      「宮坊禅定寺の梵鐘
       鐘の中に鋳込められた古鏡一面は、大和国葛城の豪家の娘の愛蔵であった。
       ある夜、鐘を守る若い寺僧の枕辺にその娘の亡霊が現れ、その時から鐘乳がぼろ
       ぼろと虫が食ったように落ちだした、と言われる。
       日本三大奇鐘の一つ。諸願成就の響きは人々の心の底まで沁みとおる思いがする。」
       
       なぜ、大村神社の宮坊である禅定寺の鐘に、葛城の豪家の娘が愛蔵する鏡が鋳込
       められたのでしょうね?
       
       葛城と伊賀の関係とは???
       
       そんなことを考えると、どうにもこうにもワクワクとしてしまうのですが。
       
       なんにせよ、この土地もまた、古くから栄えた場所であったことは間違いなさそ
       うです。
       
       過去、この土地で、土着の豪族と朝廷とのあいだに激しく苦しい争いがあったと
       する、藤原千方の伝承は、史実かどうか確認はできませんが、単なる伝説ではな
       いでしょう。
       
       でも境内ののどかな雰囲気に浸っていると、その苦しい記憶は、すっかり鎮めら
       れているような気がしたのです。

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