祭 神:須佐之男命 稻田比賣命 脚摩槌命 手摩槌命 説 明:平成祭りデータを転載します。 「その昔、須佐の郷は唯茂れる山であり、僅かに川添いに猫額の耕地をもった寒村 に過ぎなかった。須佐之男命が諸国を開拓し須佐の地に来られ、最後の国土経営 をされ、「この国は小さいけれ共よい国なり、我名を草木にはつけず土地につけ る」と仰せられ大須佐田、小須佐田を定められたので須佐という、と古書に見え ている。命がこの地に一生を終えられてから二千有余年、その御神徳は今日まで 及び村は栄え、子孫は生業を得て繁栄している。須佐大神の恩頼にかかぶりて、 農業の成功を、交通の安全を、畜産の発達を、子孫の繁栄を、良縁の結ばれんこ とを、諸障退散病気平癒を祈るもの、精神錯乱の恢復を祈請するもの、比較的交 通の不便をいとわず陸続として来る有様で、その御神徳の程がしのばれる。只惜 しむらくは、須佐の大宮は何としても僻陬の地であったため、中央との交渉、接 触少なく、知られねばならぬことも知られず、顕彰さるべき事もそのままに時は 移り、時代時代で国守の崇敬は得ていたとしても神社の社格のことも須佐国造家 のことも他国の神社やそれに比して決して十分な待遇がなされていなかった事は 色々な事象に照らしても明らかで、後人の等しく遺憾と思うところである。 須佐家の事を付け加えるならば須佐大宮司家が国土開拓に功うありし国つ神の末 裔であるというので国造に命ぜられたのは、二十四代益成宮司の時で成務天皇三 十年(一六十年)今より千八百年前のことである。それより出雲太郎、出雲次郎 を名乗っていたが、永享年中(一、四三四年)出雲国司にはばかり出の字を除き、 代々交代に雲太郎、雲次郎として今日まで連綿七十八代、二千六百四十余年を経 ている。今の宮司建紀氏は雲太郎である。須佐の姓は明治の始めにつけたもので、 それまでは須佐国造某と名乗るを常としていた。尚国造の制は大化の改新の時廃 されたが、出雲、紀伊、阿蘇及び尾張の国造だけは残されてその名を存している。」 住 所:島根県出雲市佐田町須佐730 電話番号: ひとこと:須佐之男の名を戴いた神社。 彼が最後に作り、敬意を示したからそうなったのか、それとも須佐之男がこの地 縁の人物なのか。 私はどちらかというと後者な気がします(^^ゞ さて、この地には七不思議があるとか。 他に感想もないので、とりあえず、それを説明しますね。 塩の井:境内に湧出している塩の井は大社の稲佐の浜に続いているので、微かに 塩味を感じる。湧水に間歇があるのは塩の干満のためである。須佐之男命が自ら 潮を汲み、この地を清められたという。(社記) 神馬:常立の馬と言い、神社に奉献された神馬は、どんな毛色の馬でも必ず後に 白馬に変わるという。吉凶禍福や国の大事を予知したといわれている(社記) 相生の松:本殿の裏に、一本の松に雄松と雌松の両肌のものがあった。昭和の始 めに枯れて今は残っていない。(社記) 陰無し桜:昔、隠岐の国に木の陰がさして耕作不能の処があった。 これを知々井の者が占った処、影は出雲の須佐大宮(須佐神社)の境内の桜の影 であるとのことで、願い出て切ってもらい、工作ができるようになった。その切 り株から生じた桜は、以後大木にならずに今に至っているという。(社伝) 落葉の槇:須佐之男命の妃姫である稲田姫が誕生山で御子をお産みになったとき 産具を柏の葉でつつみ、それを松葉で綴って川に流され、その包物が流れついた ところに繁茂して、今日に至る。今でも柏の葉の縁に松葉で刺したような穴があ る。(雲陽誌) 星滑:神社の西方、中山の頂上近くになめらかな岩肌が見え、その中央辺に光る ものがある。 これは星の光りを映したものだといい、大きく光ればその年は豊作で、小さくて、 光沢がなければ不作であるという。(社伝) 雨壺:神社の西を流れる須佐川の下流、道路下の田の畔に大きな岩がある。この 岩の穴をかきまわすと、神の怒りで暴風雨が起こり、洪水が出るという。(社伝) あまりにも巨大なため、日の光を遮り、茫々たる枯野を作ってしまうという大木、 「枯野」伝説は各地にあるのでしょうが、それが桜の木というのはめずらしいかも しれませんね。 感想はそれぐらいでしょうか(^^ゞ