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祭 神:高忍日賣大神 説 明:愛媛県神社庁の説明を転載します。 「高忍日賣神社の御鎮座がいつのことかは明らかではありません。当社は、伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多 少異なる)に位置します。当社の南の山地頂上部から麓の扇状地や河岸段丘、さらに平野部にかけて多くの大 小古墳があり、また集落跡や大規模な祭祀遺跡も発掘されています。これらのことは、伊予郡に有力な指導者 が存在したことを証明しており、恐らく当社の御祭神もその有力者だったのでしょう。 当社は、古代より皇室のご崇敬殊の外に厚く、飛鳥時代には、聖徳太子が道後に来られた際に立ち寄って参詣 され、神号扁額を奉納されました。 奈良時代には、神社の前を三千坊、神社の裏を千坊と呼んで境内八町余に及び、神領は伊予郡一帯に拡がりま した。 平安時代には、醍醐天皇の延喜年間(901~923)に成立した延喜式に、国がお祀りする神社が記されて おり(延喜式神名帳)に、当社の名前が記載されました。このような神社は、延喜式内社、又は単に式内社と呼 ばれ、現在でも格式高いお社として重視されています。また、正三位の神階奉授があり、「高押穂明神」とも 称され、勅使・国司の参向が度々ありました。 鎌倉時代には、高忍日賣若宮八幡宮と称し、征夷大将軍源頼朝公から神領76町を寄進され、また神社の北東 (鬼門)と南西(裏鬼門)にある夷子(えびす)社では月3回の市(三斎市)が開かれ、多くの人々で賑わい ました(この夷子社のことを、上市夷子、下市夷子と呼びました)。社家は武士団を形成して朝廷にも重視さ れ、南北朝時代には、南朝方に属して南朝興隆のために尽くし、後村上天皇から勅使左少弁を遣わされて、当 時の神主藤兵衛(とうのひょうえ)に神領安堵状が授けられました。また、豪族河野(土居)通景から神領や 武具等の寄進がありました。 室町時代には、夷子社で開かれていた市も月6回の六斎市となり、大いに繁栄しました。戦国時代になると、 戦国大名の富国強兵策により、神領を失い、商工業者は城下町に集められ、市は急速に衰えました。ただし、 この市は当地方の需要のために江戸時代の寛文年間(1661~1673)までは当社に市の設立の免許が出 されていました。 江戸時代には、歴代松山藩主の崇敬厚く、藩の祈願所として安産、厄除け、五穀豊穣、祈雨、祈晴等の祈願が 行われ、また松山藩鎮護の社・伊予郡総氏神の社として藩主、代官、大庄屋等が祭礼に参列し、現在も藩主代 官詰所が残っています。なお、嘉永3年(1850年)に上棟された松山城天守閣の丑木は、当社境内の北西 隅にあって温泉郡の川内からも見えたという大松が使われました。また、境内の古井戸は旱魃(かんばつ)に も涸れることがなく、この湧水を飲むと子宝に恵まれるとされ、女性に信仰されています。清宮貴子内親王ご 生誕の際には、皇室御産婆より安産御祈祷の御依頼がありました。 境内には三輪田米山や加藤高明、武市庫太、林銑十郎等の書を刻んだ記念碑や、全国的にも珍しい四季農耕図 等の絵馬の傑作が多数あります。」 住 所:愛媛県伊予郡松前町徳丸387 電話番号: ひとこと:安産の神様として、古くから信仰され、愛媛県ではもっとも有名な「安産の神社」とされている古社のようで す。