祭 神:須佐之命 多伎都比売命 多伎都比古命 説 明:境内案内板を転載します。 「当神社は文献に「瀧之神」とあり、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命六代の孫伊香 武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮となられたと記されています。 清和天皇の貞観二年(西歴八六六年)神階を賜わり、大三島さん、伊曾乃さんと相並んで数度に渉り昇格し貞観 十二年正四位上に昇りました。 醍醐天皇の延喜年間(九〇五年)式内大社(組)に列格の光栄に預り、皇室より久しく特別の待遇に浴し国司、主 護職、領主をはじめ庶民の信仰を集めました。 江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願のたびごとに藩主の参拝あり、七日間の祈願は中日迄を本殿で、後 半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ、必ず霊験をいただいたのであります。 広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の群集古墳からは古い歴史と由緒が伺われ、多伎川の清流と照葉樹を 中心とした自然林は全国でも有数、まさに神様のお座します所であります」 a href="http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=541">愛媛県神社庁の御由緒を転載します。 「この地は弥生時代後期の集落跡・水田跡多数あり、20年程前圃場整備の際、全国的にも大規模な穀物地下貯 倉庫が発見された。 集落のある処に神祭あり、磐座を依り代として水分(みくまり)の神を崇め相集い祭祀をしたものと思われる。 現在の地を神の杜としたのは、周辺の古墳群との関わりが多く、この時代に遷されたものと推測する。 多伎宮の語源は、多伎川に数ある瀧ではなく、嶽(天道ヶ頭 510.3米、及び8合目に座す磐座)が訛っ てタキになったのではないかと思われる。社名・ご祭神名はこれに由来すると思われ、主祭神須佐之男命は後 世勧請されたのではないだろうか。当神社は文献によると崇神天皇の御代ニギハヤヒノミコト六代の孫伊香武 雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮となられたと記されている。 清和天皇の貞観2年(860)神階を賜り大三島さん、伊曾乃さんと相並んで数度に亘り昇格し、貞観12年 正四位上に昇る。 醍醐天皇の延喜年間(905)明神大社の光栄に預かり、皇室より久しく特別の待遇に浴し、時代とともに国 司・守護職・藩主の信仰をあつめた。 伊予国神社仏閣免田注進記(慶長7年 1256)によると「瀧宮神田三町一反 神領多く11寺の別当あり」 と伝えられる。 江戸時代今治藩の祈願所として雨乞い祈願のたびごとに藩主の参拝あり、7日間の祈願は中日まで本殿で、後 半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ必ず霊験を戴いたという」 住 所:愛媛県今治市古谷乙47番地 電話番号: ひとこと:一般に、「たぎつひめ」というと、宗像三女神……つまり、アマテラスとスサノオが誓約により産んだ女神の 一柱を思い浮かべますが、この神社の祭神は、「たぎつひこ」と対になっていますから、また別の神だと考え る方が、正しい気がしますね。 とにかく、水と関係が深いようです。