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甘樫坐神社

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  祭  神:推古天皇
  説  明:我が国最初(西暦592年から628年)の女帝であるとい
       うこと、聖徳太子に摂政を任じたこと、皆さん、歴史の授業
       で習っておられるでしょう。
       その他、ちょっと詳しい方なら、聖徳太子とは、伯母・甥の
       間柄であること、自らも欽明天皇の血を引いているが、異母
       兄である、沢語田大王と結婚したこともご存知でしょう。
       何かと話題の多い祭神です。
  住  所:奈良県高市郡明日香村豊浦寺内
  電話番号:
  ひとこと:允恭天皇の時代、この神社の境内にある「立石」の前で、「盟
       神探湯(くかたち、区訶陀智とも言う)」が行われたことが、
       日本書紀に見えます。

      「天皇は詔して、“群卿百寮および諸国造達は、みなそれぞれ、
       帝皇の末であるとか、あるいは異しくして天降った者の末裔で
       あると言うが、多くの歳月がたち、真実を知ることは難しい。
       もろもろの氏姓のものどもは、沐浴斎戒して盟神探湯をせよ”」
       と。 

       盟神探湯とは何かご存知ですか?
       まず、自分がこれこれの者である、もしくは、この罪をしてい
       ないと、神に祈誓します。
       泥を釜に入れて煮沸し、手でかきまわして、湯の泥を探ったり
       するわけです。

       あつつつ・・・。となって、その手がただれた者は、嘘をつい
       ている・・・。そういうことになります。

       むちゃくちゃやん!!そう思うでしょう?でも、この儀式を、
       昔は、大まじめにやっていたのです。

       ただし、こういう話もあります。
       お湯のしずくが手に飛んできたら、誰でも「熱いっ」と言って
       手を引っ込めますね。そして、水ぶくれになったりします。
       ところが・・・。お湯の飛沫というのは、手に届くまでに、大
       概の場合、冷めきっているそうです。それを熱いと感じ、水ぶ
       くれになる・・・。実は火傷というのは、かなり精神的なもの
       に左右されているらしい。と。

       勿論、かと言って、こんな裁き方が正しいと思っているわけで
       はないのですが(笑)
       
       さて、2013年12月1日、この神社を再訪しました。
       きっかけは、春日大社での取材に際し、
      「春日野の主様は、榎本神社に鎮まる前、一旦桜井の方におられ
       たという伝承があるそうですよ」
       と教えていただいたことでした。
       
       春日野の主様とは、春日大社が鎮座する前まで、春日野を支配
       していた神様のことです。
       
       しかしある日、鹿島からタケミカヅチがやってきて、
      「この山を三尺貸してほしい」
       と申し入れたことで、事態は一変します。
       
       耳が遠く、気の良い主様は、
      「よいともよいとも」
       と承諾するのですが、それを聞いたタケミカヅチは、野山全体
       に縄を張り巡らせ、自分の土地であると宣言します。
       
       驚いた春日野の主様が、
      「何をするんだね」
       と問い詰めると、
      「私はこの野山の土地三尺までを借りると言ったはずだ」
       とうそぶき、威圧するように、主様を追い出してしまいました。
       
       主様は嘆きましたが、どうしょうもありません。
       現在あ、春日大社の境内社、榎本神社に鎮まっておられます。
       
       しかし、伝承に造詣の深い神職さんが、参拝客に取材した結果、
       その春日の主様が、仮住まいしたとされる場所があるそうです。
       
       それが
      「桜井の方にある榎……だったと思うのですが」
       と、教えていただいたわけです。
       
       仕事中なので、それ以上詳しくは聞かなかったのですが、後で
       お電話して尋ねてみましたら、
      「桜井市に阿部寺廃寺跡があります。そこが小字榎本ですよ」
       と教えてくださいました。
       
       でも、なかなかその神職さんが捕まらず、それまでの間、地図
       で探してみていました。
       しかし、榎のつく地名は見つかりません。
       そこで、
      「桜井」「榎」
       で調べてみると、桜井の地名の由来が出てたんですね。
       明日香の桜井にほど近い位置に、向原寺があります。
       このお寺は「豊浦寺」とも呼ばれ、その昔は「桜井寺」と呼ば
       れていたと言います。
       
       そしてそこには「桜井」別称「榎葉井」と呼ばれる井戸があっ
       たとか。
       
       このサイトからの引用です。
       
       そこで、向原寺を訪ねると、その裏に甘樫坐神社が鎮座してい
       たというわけ。
       
       そしてよくよく見れば、こんなものが。
       

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       そう。        耳の遠い神様に、参拝したことを知らせるために叩く、木板と        木槌です。                ご祭神は推古天皇となっていますが、彼女の耳が遠かったとい        うお話は聞きません。        ここに一時滞在した、耳の通り春日の主様のためと考えると、        しっくり納得いきませんか?                桜井市の「榎本」はここではありませんでしたが、まったく無        関係でもないような気がするのですが……。                春日の主様がここにいたという話があったとして、それはいつ        ごろから伝わっているのでしょう?                向原寺には「難波の池」と呼ばれる小さな池があり、物部守屋        が仏像を捨てた難波の池がここだとも伝わっているとか。                そして、ここは技楽伝承の地とも言われています。        池のほとりに立てられた石碑には、       「『日本書紀』六一二年に、百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本        に伝えるや、聖徳太子が桜井に学校を設け、それを伝授させた        旨がみえる。その『桜井』が、韓国の李應壽の調査研究(日本        演劇学会紀要四七)により、新たにこの付近に比定されたので、        碑を建て、韓国と日本の演劇交流の始原を記憶するものとする。        二〇一〇年七月二V日                韓国文学を憶う会」        とあります。                演芸が盛んとなる地は、当然のことながら、演芸を生業とする        人々が住んでいたはずです。        そして、ぼろぼろの乞食を聖であると見抜いた聖徳太子。                出来過ぎた取り合わせのように思えませんか?        非常に興味深いですね〜。                また、春日の主様は、今の地に鎮まるとき、タケミカヅチに、       「わらじ一足分の土地を返してほしい」        とおっしゃったそうです。        それぐらいならかまわないとタケミカヅチが答えると、主様は        わらじをほどいて縄にすると、ぐるりと土地を取り囲み、       「これだけ返してもらう」        と、おっしゃったそうです。        それが現在の榎本神社だとか。                野山全体をとられたのに、なんて謙虚な……と思いますが、そ        れが戦争というものなのかもしれません。

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