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稚櫻神社

chizakura




  祭  神:出雲色男命 去来穂別命(履中天皇) 気長足姫命(神功皇后)
  説  明:境内板には、稚桜(わかざくら)由来について
      「第十七代・履中天皇が両枝船を磐余市磯池に浮かべて遊宴ば
       れたとき、膳臣余磯が天皇に酒を奉った。その酒盃に桜の花
       びらが散って来た。
       天皇はたいへん不思議に思われ、物部長真肝連をよんで、
      『この花は季節外れに珍しく散ってきた。どこからだろうか、
       探して来い。』と言われた。
       物部長真胆連は花を探したづねて、掖上室山(いけのへのむ
       ろやま)で花を手に入れて奉った、。天皇はその珍しいこと
       を喜んで宮の名とされた。
       磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)の由緒である。
       長真胆連は本姓を改めて、稚櫻部造とし、膳臣余磯(かしわ
       でのあれし)を名づけて、稚櫻部臣という。」
       と記されています。 
           また、出雲色男命については、
      「『新撰姓氏録』によると物部氏の御先祖の饒速日命の三世の
       子孫が出雲色男命で、また、上の由緒にでてくる長真胆連の
       四代前の祖先にもあたる。
      『旧事本紀』に出雲色男命は懿徳天皇の御世に大夫(ますらお)
       になり、次に大臣となる。大臣という号はこの時からできた
       とある。」
       また、去来穂別命については、
      「第十六代仁徳天皇の皇太子で『日本書紀』の履中天皇紀に、
      『元年(西暦399年)春二月一日、皇太子(去来穂別命)は、
       磐余稚桜宮で即位された』とあり、『二年十一月に磐余池を
       作られた』と記されている」
       そして、気長足姫命については、
      「第十四代仲哀天皇の皇后で、天皇がお崩れになったので、天
       皇にかわって政務をされる、摂政となられた。『日本書紀』
       神功皇后摂政紀に、『三年春正月三日、誉田別皇子(後の応
       神天皇・・・八幡大神)を立てて皇太子とされた。そして磐
       余に都を造られた。これを若桜宮という』と記されている。」
       とあります。
  住  所:奈良県桜井市大字池之内字宮地1000
  電話番号:
  ひとこと:出雲色男命とは誰のことでしょうか?
       出雲で多分最も有名な神様、大国主命の別名の一つに、「葦
       原醜男(日本書紀)」「葦原色許男(古事記)」というのが
       ありますが、何か、関係あるのでしょうか?

      「醜男」というと、なんだか、ぶおとこなの?と思いますが、
      「しこ(醜・色)」は、強いという意味だったようです。

       だいたい、「しこ」という音にあてられた、「醜」「色」で
       は、全く意味が違うように感じますね。
      「色」という文字は、「容色麗しい」など、誉めるときには使
       うけれども「容色きたなし」とはあまり言わないように思い
       ます。・・・が、どうでしょうか?

       さて、上記のように、日本書紀によれば、この稚櫻宮は、神
       功皇后と、履中天皇の二人が宮を設けられたとなっています。

       但し、古事記では神功皇后が宮を築かれたとなっていません。
       
       履中天皇の時代にはとんでもない事件は起こっていません。
       が・・・。これはよくあることなんですが(?)弟・仲皇子
       が、反乱を起こし、履中天皇を殺そうとしています。
       日本書紀では、履中天皇が召そうとしていた黒姫を奪ってし
       まい、そのついでに反逆したようになっていますが、古事記
       では、純粋に皇位を狙って反逆しています。
       履中天皇は、仁徳天皇と石姫の間に生まれた4人の皇子のう
       ち、長男。仲皇子は次男ですから、仲皇子とすれば、兄さん
       がいなければ、自分が天皇になれる・・・と考えたわけです。

       この天皇より2代前、応神天皇の時代に儒教の思想が入って
       きたため、それまでの、末子相続から、長子相続に変わって
       きていたのですね。
       末子相続の伝統が残っていれば、この二人は争う必要がなか
       ったのですが。
       そうでなくても、この後、長男・履中天皇の次に、三男・反
       正天皇、その次に、四男・允恭天皇と、代替わりしているの
       ですから、仲皇子には充分チャンスがあったはずです。

       さて、ここで、なんとも嫌な事件が起きます。
       寝ている間に、家臣によって救い出された履中天皇は、安全
       な石上の宮に逃げた後、弟(三男)・瑞歯別命に、自分に対
       して悪い気持ちがないなら、仲皇子を殺すように命じます。
       瑞歯別命は、それを承諾するのですが、仲皇子を殺すのは、
       なかなか難しいため、その隼人・刺領巾(古事記では、曽婆
       訶里)に、「仲皇子を殺せば大臣にしてやるがどうだ?」と
       もちかけます。

       刺領巾にしてみれば、「仰せのとおりします」以外になんと
       答えようがあるでしょう?
       んでもって、首尾良く厠に行こうとした仲皇子を殺すのです
       が、その後がいけません。
       瑞歯別命は、考えます。
      「刺領巾のしたことは、我々にはよいことだが、しかし、主人
       殺しは悪いことだ」
       お〜〜〜い(ノToT)ノ ┫:・!!!

       ・・・そんなわけで、結局刺領巾は殺されてしまいます。
       もっとも、古事記では、約束は守らなくてはいけない、と、
       石上に帰る途中の大坂は山口に仮宮を作り、そこで、刺領巾
       を大臣に任命してから殺すんですが、一緒やっちゅうの。

      「刺領巾を生かしておいては、恐ろしい」わからないでもない
       けれども、そういう人間に、人殺しを依頼するあんたも恐ろ
       しいって!!

       しかも、その手柄のお蔭で、瑞歯別命は立太子されます。
       履中天皇が、
      「瑞歯別命がしたことは、私にとってはよいことだが、しかし、
       兄殺しは悪いことだ」
       となぜ思わなかったのか不思議です。

       瑞歯別命の諡号が、「反正天皇」=正しいの反対・・・って
       のは、後世の人の皮肉でしょうか?

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