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保久良神社

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  祭  神:須佐之男命 大歳御祖命 大國主命 椎根津彦命
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「昭和十三年(1938)社殿改築の時、神社境内外地は古代祭祀の遺跡地として認め
       られました。
       それは、社殿を取り巻く多くの岩石群が岩座・岩境を作り、その辺りから発見された
       弥生式・中・後期(紀元前二百年〜紀元後二百年くらい)土器石器が多数出土し、昭
       和十六年には銅戈(重美)が発見され、そのいずれもが実用を離れ、儀礼的用途を持
       つものと考証されますところから、当神社祭祀の由来も極めて古いものと証明されま
       した。
       この事から推考しますと、椎根津彦命が倭国造となり大和一円の開発と共に、海上交
       通の安全確保のために、茅渟の海(大阪湾)の良きところを求め海辺に突出した、六
       甲山系の神奈備型の金鳥山を目指し、青亀(青木)で着かれ、緑深き山頂に神を祭祀
       する磐座を設けられ、国土開発の主祭神を奉齋して広く開拓に意を尽くされ、海上交
       通御守護の大任を一族に託されたのが、御鎮座の一因ではなかろうかと思われます。
       社名起因の一つになった続日本紀の称徳紀に、『神護景雲三年六月(769)摂津菟
       原郡倉人水守等に大和連を賜う。』とあり、これは祖神の遺志を継承したその一族が
       活躍した記事であり、古くは社頭でかがり火を燃やし、中世の頃から燈篭に油で千古
       不滅の御神火を点じ続け、最初の灯台として『灘の一つ火』と多くの人々から親しま
       れ、現在は北畑天王講の人々に受け継がれております。
       他の祝部土器、又鎌倉期の青銅製懸仏も発見されました。
       平安期の延喜式(927)には、社名・社格を登載し、建長二年(1250)重修の
       棟札を所持せしことが、摂津誌(1734)に記載されております。
       保久良社又天王宮とも称し、中古本庄・近古本庄荘(芦屋川西岸から天上川まで)九
       ケ村の総氏神として崇敬され、明治五年氏子分離あり、現在は北畑・田辺・小路・中
       野が氏子地域となっております。」
  住  所:兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680
  電話番号:078−411−5135
  ひとこと:ご由緒にもありますように、金鳥山という、ちょっとした小山の上に鎮座する神社で
       す。

       傾斜は結構険しいんですが、ぞくぞくと人が降りてくる。
       お正月だから、初詣の人が多いのかなぁ?
       と思ったんですが・・・。
       結構いたるところに、看板が(^^ゞ

      「早朝登山はお静かに」

       なんてね。

       山登りを兼ねて神社参拝する方が結構おられるのかもしれないですね。

       神社から見下ろしますと、神戸港が見えます。
       神様に鎮座いただくには、よい場所かも。

       というのと、古代神戸の海の手側は、多分、まだ水の底だったんじゃないかと思いま
       す。

       つまり、「多少小高い場所じゃないと、神社を建てることができなかった」と云う事
       情もあるかもしれません。

       ただ、弥生中・後期からこの土地で、人々が祭祀を行っていたということは、興味が
       ありますね
       
       神社のご由緒を拝見しますと、ご鎮座の経緯は、大和国造である、「椎根津彦命」が、
       国を鎮守していただくために創建したのではないか、ということ。

       椎根津彦命とは、神武天皇が九州から東へと向かう時、道案内を申し出た人物です。
       その人物が創建した神社の主祭神が、「須佐之男命」というのは・・・。

       須佐之男命は、天照大神の弟。
       神武天皇は、天照大神から数えて、孫の孫の子供・・・つまり、5代くだった人物
       ということになりますから、この二者は「遠縁」といえないこともありません。

       だから、神武天皇の道案内をした人物が、その遠縁に当る神様をお祀りするのには、
       不思議はないようなのですが・・・。

       ただ、こういう見方もあります。

       須佐之男命は、天照大神の岩戸隠れの原因を作ってしまった神様です。
       そして、天照大神が天に戻った後、爪を剥がれるなど厳重に「清め祓」われた後、
       高天原を「追放」されました。

       その後、須佐之男命は出雲へやってきます。
       そして、八俣の大蛇を退治。
       出雲の国の土台を作ります。

       そして時代は下り、出雲を大己貴命が統治する時代となりました。
       そこへ「出雲を譲れ!」とやってきたのは、高天原の使者・武甕槌命と経津主命。
       そして、国を奪ったのは最終的には、神武天皇の曽祖父にあたる、瓊々杵尊・・・
       ということになるでしょう。

       そういう意味では、この両者は、決して友好的な関係ではない、と言えるのでは
       ないか、と。

       などということを考えると、

       椎根津彦命と、須佐之男命には、記紀の伝承とは違う「関係」があったのでは?

       もしくは、
       須佐之男命をお祀りしたのは、椎根津彦命であったわけではないかも?

       などという想像がふつふつと湧いてきますね。

       中でも前者の想像は面白いかもしれません。

       椎根津彦命は、亀に乗って登場した神様です。
       亀に乗って・・・というと、浦島太郎を想像しますよね?
       ・・・もちろん、椎根津彦命と浦島太郎の関連はわかりませんが。

       丹後国風土記逸文では、浦島太郎が助けた亀は、乙姫様の化身であった、という
       ことになっています。

       乙姫様は、竜宮城のお姫様。竜宮の王様の娘、もしくは竜宮の女王様でしょう。

       その化身である「亀」に乗ってきたわけですから、椎根津彦命は竜宮と縁の深い
       人物だったといえるかもしれません。
       そして、王女(もしくは女王)の背に乗るくらいですから、かなり有力な人物だ
       ということになるのではないでしょうか。

       さて、須佐之男命は、「根の国の支配者」です。
      「根の国」とは、言ってみれば、「この世ではない場所」。

       竜宮にしても、同じです。

       つまり、須佐之男命と椎根津彦命は、
       それぞれ、
      「地底の彼岸」と、「海の彼岸」の有力者、ということに。

       この二つの「彼岸」が、互いに関係している可能性は十分ありそうです。

       そして、この神社は「山の上」。
      「山の上の彼岸」とも、もしかしたら、どこかで繋がっているのかもしれません。

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