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鏡神社

kagami




  祭  神:天照皇大神 藤原広嗣公 地主神
  説  明:案内には、
      「社伝に、遣唐使派遣の祈祷所たりし当地に、平城天皇宇大同元
       年(西暦806年)新薬師寺鎮守として奉祀せられしと謂ふ。
       末社 天神社 火雷天神
       末社 祖霊社 歴代の氏子内功労者を祀る
       末社 天満宮 菅原道真公・市杵嶋姫命
       摂社 比賣神社 十市皇女・市杵嶋姫命」
      「桜花を娘子に贈りて
       この花の一瞬のうちに 百種の言ぞ籠れる おほろかにすな」
       万葉集巻八 一四五六
       一枝の桜に万感の思ひを籠めて贈られた、若き日の広嗣公の歌。
       純情真率の情溢れるばかりで、万葉集中に於ける優作である。
       藤原広嗣公は、式部卿左大臣宇合の長子で、母は右大臣石川麻
       呂の子であった。幼きより文武の才に秀で、管絃歌舞の道・天
       文陰陽の技に精しく、五異七能の才と謂はれたが、従五位大倭
       守を経て右近衛少将に上り、天平十年大宰少弐に任ぜられた。
       この頃僧玄日方・吉備真備の両人唐より帰朝して寵遇を蒙りて
       より、時勢を得、特に玄日方は非行多く僧にあるまじき所業が
       多かった。公の純情・剛直の性は之を黙視し得ず、同十二年、
       上表して時弊を指摘し、君側の奸を退けられんことを乞うたが、
       上表後七日にして思ひもかけず官軍の攻撃を受けるところとな
       った。同年九月、已む無く兵を集めて遠賀郡に軍営を構へ、之
       を防がんとせられた。大野東人の率いる官軍に対して、筑後板
       櫃河に戦ひ、肥前長野村に於いて囚わるる所となり、本意なく
       も逆人の汚名を蒙って、志未だ至らざるに、非業にして松浦郡
       につみなはれ給うた。その抗戦些かも戦意なく、義志遂に完う
       せられることなく、その後、公が怨霊の祟り屡々であったと謂
       ふ。
       公が憂慮の通り、僧玄日方は非行募り勅勘を蒙って、天平十七
       年筑紫に配せられ、偶々観世音寺落成の式に臨むや急死を遂げ
       了った。世人は之を広嗣公の崇り故とした。真備も亦、孝謙天
       皇の御宇肥前に左遷せられるに際し、鏡尊廟を建てて、義しき
       公の威霊を祀り、後世鏡宮・板櫃社と称せられて、永く松浦明
       神三座の一として崇められたのである。
       広嗣公の憤死以来、霊神信仰漸く世に顕れ、井上内親王・火雷
       天神・吉備内親王・他戸親王・早良親王などと共に、公も亦、
       平安京の上下御霊社に鎮斎せられたのは、著聞の事であり、八
       所御霊即ち之である。
       公の威霊を祀った社はもと頭塔山の付近福智院の境内に玄日方
       の弟子報恩により崇められ、その創建は天平年間であった。
       玄日方首塚の伝へ及び吉備塚・俊寛塚などの遺跡が近傍に在り、
       公の威霊激烈なることは、かの頭塔伝説に於いて玄日方筑紫に
       急死するやその遺体、奈良の地に飛散して興福寺境内に落ち、
       首は頭塔山に、腕は肘塚町に、眉と眼とは大豆山町に飛来した
       との口碑が伝へられてゐる。之は、広嗣信仰が背後にあったが
       故である。
       これらの史伝によって、古代の清烈剛毅なる至情微らざりし叙
       事詩的な公の悲痛な生涯が想はれる。
       現社地は、公の邸宅址とする伝へもあり、天平時代後期、新薬
       師寺復興の際、その鎮守神としてここに勘定せられた如くであ
       り、末社火雷天神は、不空院境内にその御陵(御霊?)がある
       のを配祀したものと思はれる。その後里人この二神の清純濠烈
       たる威霊を氏神と仰ぎ崇めて久しい。」
       とあります。 
  住  所:奈良市高畑町468番地
  電話番号:
  ひとこと:藤原広嗣の乱は、天平12年に起きています。
       藤原広嗣の弟には、藤原百川がいます。
       この百川は、井上内親王に謀反の濡れ衣を着せたと言われる、
       張本人で、その兄が、何者かに謀反の濡れ衣を着せられていた
       としたら、なんとも皮肉なことですね。

       ちなみに、敗北した広嗣は自ら刀で首を斬って、なんと、その
       首は空に舞い上がり、赤い鏡になったという伝説もあるそうで
       す。
       そして、この赤い鏡を見ると、死んでしまうと。

       この鏡神社という名前は、この「赤い鏡」から来てるのでしょ
       うか??

       さて、この玄日方の非行なのですが、これは時の天皇・聖武天
       皇の妻・光明皇后との不義密通である、と言われています。

       光明皇后の名前はご存知でしょうか?
       藤原不比等の三女である彼女は、慈善の人として有名です。

       中でも、日本初の病院とも言われる、「施薬院」を建立したこ
       とは有名です。
       その他にも、老人・孤児を養う「悲田院」。
       病人の世話をするための「療病院」を建立し、無料で開放した
       のです。

       子供の頃に光明皇后の伝説を読みました。
       
       光明皇后は、貧しい人たちをお風呂に入れ、自らの手で彼らの
       背中を流していたのだけれど、ある日、飛びぬけて汚れた老人
       がやってきて、皇后に「背中を流してくれ」と頼みます。
       あまりの汚れと臭いに他の入浴者も逃げ出すほどだったのだけ
       れど、皇后は嫌な顔をせずに心を込めて背中を流すのです。
       老人の垢が落ちるに従い、体の中から光がこぼれ、気づいたら、
       老人は阿弥陀様になっていたのでした。
       そんなお話です。

       しかし、光明皇后は、そんな慈悲深い心が伝えられると共に、
       この僧・玄日方だけでなく、藤原仲麻呂との不倫も伝えられて
       いて、なかなかに、お忙しい女性だったようでもあります。

       いや、それよりも。
       藤原仲麻呂って、光明皇后と、聖武天皇の娘・孝謙天皇の寵愛
       も受けてるんですよね。

       よっぽど美男だったのかしらん・・・。

       道鏡が、魔僧だと有名になる前に、この仲麻呂を有名にしてあ
       げてほしいですねぇ。
       後から寵愛される人間のが記憶に残るのか、仲麻呂は、あまし
       話題になりませんもの。

       そうするとこの藤原広嗣が命をかけて上表した、僧・玄日方の
       非行も、藤原仲麻呂の二の舞だったわけで。

       広嗣公が、玄日方にこだわったのは、別の訳がありそうでもあ
       りますね。

       どちらにしても、乙女に桜の花を贈った、広嗣公のことですか
       ら、人妻であり、妖艶で美貌の光明皇后への横恋慕から・・・
       ということはなさそうです。

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