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軽羽迦神社

karuhaka




  祭  神:天照大神 蔵王権現 熊野権現
  説  明:羽曳野市の案内には、
      「現在の軽羽迦神社は戦後建てられたもので、最初は白鳥陵
       古墳の濠の横の祠に祭ってあったとされています。その後
       誉田八幡宮に一時預けられ、現在は白鳥陵古墳の隣に移さ
       れました。今でも白鳥陵古墳の濠の横には小さな祠が残っ
       ています。」
       と書かれています。
       主に天照大神を祭祀し、蔵王権現・熊野権現は、後の合祀
       なようです。

       熊野権現は、熊野三山の神々でしょうが、蔵王権現という
       神様は耳慣れません。どんな神様なのでしょうか?

       調べてみると、役行者が勧請した神様なようです。       

       役行者が大峯山中で地上で苦しむ人達を救う神を顕現する
       ため、祈ると、最初弁財天が現れましたが、役行者はこれ
       は破邪の神としては優しすぎると考え、もっと強い神が欲
       しいと更に祈りました。(この弁財天が天河弁財天なのだ
       そうです。びっくり(゚o゚))

       そして、次に現れたのは、地蔵菩薩でした。地蔵は力はあ
       るのだけれど、慈悲深い仏様なので、もっと荒々しい仏を
       と望むと、突然凄まじい雷とともに、憤怒の形相の仏が炎
       の中から現れました。これが蔵王権現なんだそうです。

       仏様ですよね・・・?
       神道では、この仏様を、ある神様だとしているのですが・
       ・・。どなただと思います?
       ・・・・・少彦名命なんですよね。
       あ・荒々しい?憤怒???(^^ゞ
  住  所:大阪府羽曳野市軽里3丁目
  電話番号:
  ひとこと:竹内街道を西へとぶらぶら行くと、この神社に辿り付きま
       す。
       竹内街道というのは、推古天皇二十一年(西暦613年)難
       波から飛鳥へと通じる街道として整備された、わが国最初
       の官道(国道)で、この道が通じる、遠つ飛鳥は、「シルク
       ロードの終着点」。文化が竹内街道を通って行ったんです
       ね。

       さて、この神社の祭神は、天照大神。
       なんだかとても、場違いな気がしますね。
       物部氏が栄えた地ですから、その祖神「天照国照火明櫛玉
       饒速日命」であるなら、わかりますけどね(^。^)       

       さて、古事記の允恭天皇の項に、
      「允恭天皇は、木梨軽太子の御名代として、軽部を定めた」
       とあります。
       軽部がどこにあるのか・・・と言うのは書いてありません
       が、ここ、軽里にある向墓山古墳は、「木梨軽皇子の陵で
       はないか」と考えられている古墳です。
       軽皇子の里だから、「軽里」。
       軽皇子の墓だから、「軽羽迦」・・・ってのは、あまりに
       も短絡的すぎるでしょうか?

       木梨軽皇子は、立太子したものの、皇位につくことは、あ
       りませんでした。
       なぜなら、彼は、近親相姦の罪で追われ、伊予の国に流さ
       れてしまうからなのです。(日本書紀では、自殺したこと
       になっています。)
       その相手は、軽大郎女。
       古事記によると、この軽大郎女は、美しく体の光が衣を通
       して出ていたため、「衣通姫(そとおりひめ)」と呼ばれ
       たと書かれています。(日本書紀では、『衣通姫』と呼ば
       れたのは、允恭天皇妃の妹・弟姫であることになっていま
       す。)

       軽皇子は、確かに、人の上に立つ人間としては、相応しく
       なかったかも知れません。

       しかし、彼は、妹・軽大郎女にどんな思いを抱いていたの
       か、古事記に、詠まれた歌を見てみましょう。

      「笹葉に うつや霰の たしだしに
                    率寝てむ後は 人は離ゆとも」
       −笹の葉に霰が音を立てる。そのようにしっかりと共に寝
       ることができたなら。よしや君は別れても−

      「うるはしと さ寝しさ寝てば 刈薦の
                    乱れば乱れ さ寝しさ寝てば」
       −いとしさにまかせて、共寝ができたなら、あの刈り取っ
       た薦草のように二人の仲がばらばらになってもよい。寝て
       からはどうなってもよい−

       そして、彼は妹と通じ、それが露見して流罪になるのです
       けれど、その時に彼が詠んだ歌も、また心を打ちます。

      「天飛む 軽の嬢女 いた泣かば 人知りぬべし
                  波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く」
       −空飛ぶ雁のような軽の乙女よ あんまり泣くと人が気付
       くでしょう。それで、波佐の山の鳩のように、忍び泣いて
       いるのです−

       伊予に流されようとする時詠まれた歌は、

      「大君を 島に放らば 船余り い帰りこむぞ 吾が畳ゆめ
                言をこそ 畳と言はめ 吾が妻はゆめ」
       −私を島に流すのなら、余分な船で帰ってこよう。私の座
       を守っていておくれ。いや、言葉では座を守っていてくれ
       というのだが、本当は、私の妻を守っていて欲しいのだ−

       いかがですか。彼を蔑む気持ちになりますか?
       妹・軽大郎女は、彼を恋いて、伊予まで追いかけてきます。
       そして、共にお隠れになります。

       私はこの二人の物語は、古事記の中で、最も美しい恋物語
       の一つだと思うんです。

       さて、衣通姫は、どんな歌を詠まれたのでしょうか?
       古事記には1つしか載せられていません。

      「夏草の あひねの浜の蠣貝に 足踏ますな 明してとほれ」
       −夏草のあいねの浜の牡蠣の貝殻を踏んではいけません。
       夜が明けてからいらっしゃい−

       兄が、流される時に詠んだ歌です。
       このやり取りを見ると、この二人は、軽皇子が帰ってくる
       と確信していたようです。

       なぜそれが叶わなかったのでしょう。
       帰ってくることが叶わないとわかったから、衣通姫は追い
       かけてきたのでしょうか。それとも?

      「隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に
       ま杙を打ち 斎杙には 鏡を掛け ま杙には ま玉をかけ
       ま玉なす 吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妹 ありと 
       いはばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ」
       −隠遁のこの地の泊瀬川の、上流には清らかな柱を立て、
       下流には立派な柱を立て、清らかな柱には鏡を懸け、立派
       な柱には玉を懸けよう。
       この玉のように大事に思ってるいとおしい妹よ。
       この鏡のように大事に思っている私の美しい妹よ。
       あなたがいると言うのなら、家にも行きましょう。国を懐
       かしいとも思うでしょう−

       木梨軽皇子が亡くなる時に詠んだ歌です。
       彼にとっては、皇位よりも、妹が大事だったのですね。
       きっと、彼は天皇になって、衣通姫を諦める人生よりも、
       幸せな人生を選んだのでしょう。

       衣通姫はどうだったのでしょう?
       それは、どこにも書かれていません。
       もし、あなたが、衣通姫だったら?
       幸せですか?不幸せですか?

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