祭 神:素盞鳴尊 奇稲田姫命 八柱御子命 説 明:栞によりますと、 「当社は創立年月日明細ならねど古来難波下宮と称し、後三条天皇 の御代延久の頃には既に祇園牛頭天皇を勧請せる古社として世に 聞こえたり。古く伝ふる処に依れば仁徳天皇の御宇、此の難波の 郷に悪疫流行し、老若男女不幸短命にして死する者多し。 時に此の浦の万木森々たる処の松樹に牛頭天皇の霊地と曰へる験、 顕れたり。仍って郷人此処に社を設けて大神を祭祀せり。 之より悪疫屏息し、此地の郷人大いに助かり生業頓に賑ひ耕拓の 道すゝみ民富殷饒す。此事仁徳天皇の叡聞に達し難波の都の守護 神として深く御崇敬遊ばされ、後世武将の域内交代の際は必ず参 拝し弊物を供進せらせしこと老口に伝へり。猶又後陽成天皇の第 八宮重雅親王深く当社を御崇敬あらせられ、寛文元年九月御染筆 の縁起書一軸を当社の時の神主・氏原右衛門尉に御下賜あらせら れたり。 昔は難波一村の氏神にして、もと仏寺併立し七堂伽藍巍々として、 聳え、附属の寺院十二坊を有したりと云ふ。然れども其縁由は今 詳らかならず。その十ニ坊の一大門の坊深妙寺を最後にして他は 皆兵火に罹り荒廃せり。明治維新後の神仏分離に依りて寺は廃絶 す。古来度々修理改築を行へるものゝ如くなるも其の年月日は明 細ならず。戦災後多難の時、氏子崇敬者奉賛会を結成、昭和二十 三年假社殿復興す。 昭和四十九年五月吉日新社殿完成す。」 とあります。 住 所:大阪市浪速区元町2丁目9−19 電話番号:06−6641−1149 ひとこと:何かと話題になる神社です。 なんと言っても有名なのは、獅子舞台でしょう。 金色の牙は合計、末広がりの八本。上の歯下の歯それぞれ八本の めでたさに加え、目がライト、鼻がスピーカーになるというアイ デア。 その他、おみくじの数も有名かも知れません。 拝殿の前に並んでいるのは、だるまみくじ・こけしみくじ・華み くじ・縁起物みくじ、等々。 おみくじを引くんじゃなくて、縁起物を引き当てるような感覚に 陥ってしまいますね。 神事は、「綱引き神事」が、無形文化財に指定されています。 これは、1月の第三日曜日に行われる、所謂年占いの神事なんだ そうです。 綱は、御祭神・素盞鳴尊が退治した八俣大蛇を象ったものだとか。 これを、氏子さん達が左右に別れて引き合い、勝った方の人達に その年の幸が訪れるんだとか。 もともと、左右の氏子さん達には、なんらかの意味を背負っても らってたのかも知れませんね。 例えば、左方の氏子さん達は豊作を、右方の氏子さん達は商売繁 盛を、なんて具合に。 それで、左方が勝てば、「今年は豊作やで〜」。 右方が勝てば、「今年は商売繁盛やで〜」と占う、とかね。 それにしても、仁徳天皇の時代、牛頭天皇という神様が本当に、 難波の人々に認知されてたんでしょうか? 牛頭天皇は悪疫退散の霊験あらたかな神様ですが、牛頭天皇= 悪疫退治という考え方がいつごろからされたのか? 素盞鳴尊=牛頭天皇という考え方は? 仁徳天皇の時代、人々が貧しかったため、仁徳天皇は貧しい生 活を自分にも課した、と言われており、病気も流行したでしょ うね。だから、この難波に悪疫退治の神様を祀った祠があった というのは真実らしく思えます。 ただ、それが牛頭天皇かどうか・・・。 牛頭天皇は、大阪ではかなりたくさんお祀りされている神様で す。 これは、いろんな理由があるでしょうが、織田信長が牛頭天皇 を祭祀した神社だけは焼き討ちしなかった為、焼き討ちを逃れ るために、牛頭天皇を急遽お祀りした神社が多かったのだとか。 この神社もそうだ、とは言いませんが、ひとつのお社に、たく さんの神様をお祀りして、「いろいろお願いごとありまっさか いに、よろしゅうお願いしまっさ」と図々しくお願いする難波 人ってのがしっくりくるんですよね(^^ゞ そんなわけで、今は、上記三柱のご祭神に落ち着いているけれ ども、いろんな時代にいろんな神様が、たくさんお祀りされて た気配をすこ〜〜し感じて帰ってきたのでした。